江戸時代の見世物……異国からの珍奇な動物 ラクダほか
「ラクダの見世物」絵・歌川国安、文政7年(1836)版元・森屋治兵衛、大判錦絵2枚揃い


ラクダの渡来は、推古7年(599)と推古26年(619)である。『文政4年(1821)にオランダ船が長崎に舶載し、大阪では文政6年に、江戸では文政7年に見世物となり、話題騒然となった。』川添 裕(別冊太陽「見世物はおもしろい」2003年6月)アラビア産のヒトコブラクダ2頭の牡牝である。

  日本人が唐人の格好をして、銅鑼やトライアングルを敲き、如何にも異国からの渡来と盛り上げた。『一般に舶来動物の見世物では、疱瘡麻疹除けを典型として、種々の「ご利益」が説かれることが多い』(同書)。ラクダ興行は、浅草寺側の西両国で行われた。ラクダを見るだけでと思われるが、日本でもパンダが来たときの騒ぎを思い出せば、我々にも江戸人の遺伝子(DNA)が、立派に受け継がれているのである

  次のページに「和合駱駝之世界」を紹介2014.06.14更新


浅草のゾウ見世物 明治9年の象見世物 「明治9年アジアシウ天竺渡り大象三年七ヵ月 浅草浅草開帳ニテ興行」絵・歌川国重、版元・山村金三郎 国立国会図書館デジタル化資料 (右側)
「浅草奥山にて興行」絵・歌川国重、版元・小玉弥七 国立国会図書館デジタル化資料 (左)
享保14年の象見世物
享保14年(1729)の象 牡7才 安南産の象  東京国立博物館所蔵 
 
一勇斉国芳 浮世絵
文化10年の象 狩野古信  

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一勇斉国芳(歌川国芳)の描く見世物見物、
大英博物館所蔵

文化10年(1813)の象 東京国立博物館所蔵


日本人と象の出会い……
 

  日本人と象の出会いは早く、応永13年(1408)の室町時代頃である。若狭湾に漂着した南蛮船が、象や山馬、オウム、孔雀を持ち込み献上した。
江戸に象が来たのは、好奇心旺盛な八代将軍吉宗の時である。享保13年(1728)6月7日、今のベトナム(安南)から牡雌二頭の象が長崎にやって来た。その知らせを受けた吉宗は、江戸に連れて来るように命じた、雌は直ぐに死亡したが牡は長崎から江戸へ一年をかけて歩いてやって来た。途中の京では、天皇も御覧になった、この時、拝謁するため、象に官位を贈呈された。象について描かれた単行本『象志』
 
  象の歩いた道には、象にちなんだ挿話が残されている。急坂には「象なき坂」などは、象も泣いて登った坂である。一年を超えて江戸に着いた象は、江戸城に入り吉宗に上覧され、その後、現在の浜離宮で飼育されたが、暴れて番人を殺すなど事故があり、中野に幕府直営の象舎をつくり払い下げとなった。
 
  飼育されて江戸庶民にも見物が許された。象は病に効く薬と言われ、汚い話だが排便さえ漢方薬として使用された。死亡した後は、世話をした中野村の源助に下げ渡され、見世物になったようである。いま、その骨や皮は中野区が保管している。


文久3年(1863)にも両国西側で象の興行が行われた。
  三才の牝象で歌川芳豊が浮世絵にしている。題は『中天竺馬爾加国出生新渡舶来大象之図』仮名垣魯文が説明文を書いている。幕末の興行では大ヒットで、早速、歌舞伎に取り入れられた、翌年の市村座で『恋討つ文殊知恵輪』に水茶屋を取り入れ、遊女江口が普賢菩薩の化身である白象に乗って現れる趣向である。(参考・『江戸の見世物』川添 裕著 岩波新書 2000年刊)

明治になると、上記2点の浮世絵のように象の興行もあるが、江戸時代と違い微妙な変化が現れる。


  教育的見地に変わり病気が治るなどの効用は謳われなくなった。また、数種の動物を見せるサーカスのような方向に向かい始めた。明治15年には、上野公園に上野動物園が開園した。しかし時代は変われど見たことのない動物への好奇心は強く、パンダの時の熱狂はすさまじかった。象は人気のある動物で、戦後、上野動物園にインドのネール首相から、象を送られたときの熱狂を思い出す。私も仕事で上野動物園の象舎に撮影で入ったが、象は賢く、係員に連れ出されて、遠くから自分の巣(住まい)に侵入する人間(私たち)を睨んでいた。その目は猛獣の目であった。


ー見世物の豹(ヒョウ)、記録では天正3年(1575)から日本に来たー
歌川芳豊 ヒョウ浮世絵 河鍋狂齋 ヒョウ浮世絵

「西両国興行」絵・歌川芳冨、万延元年(1860)7月、版元・綱島亀吉 彫師・小泉彫兼、説明文・仮名垣魯文

「今昔未見 生物猛虎真図」絵・河鍋曉斎、万延元年(1860)版元・恵比寿屋庄七 説明文・仮名垣魯文 国立国会図書館デジタル化資料

虎となっているが豹(ヒョウ)である。将軍も御覧になり、『武江年表』斉藤月岑にも豹だと記載あり。

ー江戸っ子達の好奇心、茶屋で渡来の動物を見る『孔雀茶屋』を生んだー


見世物小屋が盛んになると、天明・寛政の頃からゆったりとして見物したいという雰囲気になった。『亭内に小屋掛けして珍鳥(なかでもクジャクは欠かせない呼び物だった。)や奇獣(とくにシカの場合が多かった)を飼い、あるいは変わった博物標本や花木、盆栽、外国渡りの珍しい花卉の鉢植えなどを並べて客を呼ぶ茶屋が出現した。「孔雀茶屋」、「鹿茶屋」、「あるいは珍物茶屋」、「花物茶屋」である』。これらは両国や浅草、上野山下などの繁華街に開店して客を集めた。

クジャク茶屋
『文明の中の博物学 西欧と日本 上』西村三郎著 紀伊國屋書店 1999年刊


「孔雀茶屋」摂津名所図絵2巻 秋里雛嶌先生・他 版元・森本太助・他
寛政10年(1798)

 左の画は摂津国(現在の大阪府北部と兵庫県の一部)の茶屋風景であるが、江戸から各地に広がったと考えられる。人に比べてクジャクが大きすぎるようだが、孔雀以外にも珍しい動物が見られた。茶屋にやってくるのは、武士から町民、男も女も子供からお女中まで多様な人たちであった。池には水鳥がおり、人々が垣根越しに見ている。鳥の檻の中には渡来のインコや鸚鵡などもいた。

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