野菜を洗うところであり、また子供達のプールでもあった「洗い場」


《馬込地区の湧水・洗い場》

 
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昭和37年(1962)から昭和40年(1965)代前半頃まで、馬込九十九谷は至る所に湧水や洗い場があった。私の住んだ西馬込(昔の大谷)も雨が降ったあと、直ぐに斜面から水が湧いて流れてきた。大げさに言えば地面も水を含んで軟弱地で、30センチも掘ると水がわき出てきた。その頃(昭和20年代)、水道もなく井戸水だった、そのような馬込地区も都営地下鉄工事で地下の水脈が分断されると、地盤沈下を招き、我が家の道路も数センチから数十センチほど沈下した。今でも地盤は沈下している。

 今では見られなくなったが、開通したばかりの都営地下鉄 西馬込構内では、湧き出た水が地下通路壁下の水路を大量に流れていた。排水が大変であったろうと思う。現在、この排水は池上付近の呑川に放流され水質浄化に役立っている。

馬込付近の洗い場》
 
大田区発行の『史誌』第6号(昭和51年)
 
  関 俊彦氏が馬込付近の洗い場を取り上げておられる。この中で南馬込6-8-8、南馬込1-24-8、南馬込1-39-5、南馬込5-2-10、南馬込5-12-8、南馬込2-26-11、の6カ所を紹介している、そのほとんどが昭和51年(1976)に使われていた洗い場であったが、現在(平成29年)ではすべてが廃棄され住宅になっている所がほとんどである。

 洗い場は湧水が湧き出ており、古代より人が住んでいたことを示唆する場所でもある、3000年前には馬込九十九谷は入り江であった。海がこのあたりまで侵入しており、穏やかな海辺であった。縄文人は湧水を飲み水として生活していた、湧水の側には貝塚が発見される。
  内川はこれらの湧水が流れ込んで形成された川であり、湧水が少なくなると川も細り、今では暗渠となり生活排水の下水管となってしまった。

写真は、湯殿神社隣りの公園内「湧水」である。公園を造ったときに造られたのであろう。昔はここから内川に流れていった、根古屋と呼ばれた台地裾野である。ここにも稲荷社があったと言われるが、写真上部に何かの跡があるが、確認は出来なかった。(住所 南馬込5-18-7) 

西馬込「共同の洗い場」西馬込2番地7号あたり
 
  写真は、西馬込2丁目にあった共同の洗い場である。湧水を利用した洗い場であり、深さは2メートルほどであった。途中(深さ50センチぐらい)の所に竹の簀の子(すのこ)があり野菜の泥を落とすようになっていた。もちろん人が落ちても溺れないようにもなっていた。洗い場の広さは横幅5メートルぐらい、縦は2.5メートルほどであった。写真は大正年代(上)と昭和20年代(右)の洗い場である。洗い場は昭和20年代末に廃止された。

 洗い場は野菜を洗うために泥で埋まる、そこで年2回の泥さらいが行われた。これは、「洗い場替え」と言われ谷戸(ヤト)の共同作業であった。
洗い場で遊ぶ子ども達 写真 河原雅春氏所蔵

『洗場日待諸入費控帳』
 
  昭和9年(1934)から昭和35年(1961)までの諸費用を記載した帳面である。おそらく洗い場の諸費用電灯代や日待講の費用を記載してあるようだ。共同の洗い場として使用され、廃止されたのちは、各自が自分の土地に洗い場を設置した。私が馬込に来た頃に、横の畑に小さな洗い場があった、しかし上写真の洗い場があったかどうか記憶がない。
 
 日待とは「お日待講」のことで、大田区内の村で広く行われた。太陽に感謝する宗教的な行事であったようだが、のちの共同体の親睦的な行事になり、決められた宿(家庭)に集まり寝食を共にしたようである。行われる日は、正月・5月・9月の一日である。 (資料 河原雅春氏所蔵)


 ー大田区内最後の湧水か、馬込八幡社付近の湧水・洗い場・菅田邸内ー

湧水写真

今も現役の湧水が出る洗い場(左写真)  

  この洗い場は、馬込八幡社台地下の窪地にあり、戦前から使用されている家庭の洗い場である。斜面から湧水が湧き出ている、浸みだしてくるといった方がよいかも知れない。もちろん昔は溢れるほどの水量であったが、近年は水量が少なくなった。それでも洗い場(約横1,8メートル 奥行き90センチ)を満杯にしている。水面が高くなると左側の下水口に流れる。池には鯉が泳いでいる。
また、井戸水は水質検査でも良好で、飲料水としても適正であるとのことである。(2010年撮影)

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