ー大田区 多摩川の「渡し」について考える……廃止までの歴史ー
  
多摩川に渡しはいくつあるか?………
 2013.03.05更新
多摩川の「渡し」は、上流の青梅から羽田付近まで41カ所ありました。大田区に含まれるのは、丸子から東京湾河口の羽田までの7カ所です。

  東京湾河口(川下)から「羽田の渡し」「大師の渡し」「六郷の渡し」「小向の渡し」「古市場(矢口渡し)」「平間(上平間)の渡し」「丸子の渡し(上丸子)」です。大田区から出るようになりますが、作業渡しの「下野毛の渡し」、「二子の渡し」がありました。これ以外にも水量が少なくなる冬場だけの「渡し」や、対岸の農地に行く「作場渡し」という小規模の渡しがあったと考えられています。
 これら7カ所(大田区)の渡しの中でも官許(幕府の管轄する渡し)は、東海道の渡しである「六郷の渡し」しかありません。幕府から渡船料がきめられており、幕府の役人や女性、武士、僧侶などは無料とされました。それら無料の人は全体の3割から4割を占めたと言われています。
  
渡しに使用された船について………六郷の渡しに使われた船

六郷の渡し

船の大きさ
「歩行船」で長さ4間(7.2メートル)、幅一間半(2.7メートル)、高さ一尺5寸(45センチ)が標準でした。馬船はこれより一回りほど大きかったと言います。
  船底はどちらも平底の伝馬船(でんません)で、船頭は先端に鋼鉄製のカバーを付けた竿を川底に差し前に進みました。多摩川は川底に上流から運ばれた石が堆積していたため、木の竿ではすぐに削られてしまうため鋼鉄の覆い(石づき)を付けたのです。(六郷の渡し)


竿の長さ
 季節ごとの水量にあわせ8メートル、6メートル、5メートルと三種類ほどあったと言います。多摩川は川幅に比べ深さは浅かったと言われています。冬場には河川敷が広くなり乗り場まで約100メートルも歩かされた「大師の渡し」のような所もありました。

船頭の数
  二人、舳先(へさき)と艫(とも)に乗り船を動かしました。運行の時間は、朝6時(明け六ツ)から午後六時(暮れ六ツ)が基本でした、渡しにより違いがあり、「丸子の渡し」のように一晩中わたれる渡しもありました。これは中原街道が物流の道であり、新鮮な野菜などを江戸に運ぶ必要からだと思われます。川崎側から朝暗いうちから動きだし朝早くに江戸の町に入ることが求められたからでしょう。そのため、丸子の渡しは船頭が泊まり込む常設の小屋がありました。

渡し船
拡大表示
  渡し賃はいくらか………六郷の渡しの渡し賃

渡し賃について
  明治初期頃の
渡し賃は男女の大人が5厘(りん)、牛馬8厘、人力車7厘ほどでした。小さな渡しでは村人は無料でしたが、渡し賃の代わりに米や粟、稗、栗などを船頭に渡しました。水かさが増すと川止めとなり、川止めでなくとも増水の時の運行は割増料金となりました。明治になり渡しは徐々に廃止され姿を消していきました。(『都市紀要35 近代東京の渡船と一銭蒸気』編集・発行 東京都 1991年)

〈江戸時代 文化9年(1812)9月の資料〉
馬船ー長さ6間半(約11.7m)幅1間2尺(約2.4m)・馬4匹乗船・水主2名・8艘を常備。

歩行船(別名・カチブネ)ー長さ6間2尺(11.4m)幅1間1尺5寸(約2.3m)・人間30名乗船・6艘を常備。
 


大田区内渡しの略歴 下流より記載…詳しくは本文を参照
1「羽田の渡し(六左右衛門の渡し)」
 または「古渡し」とも言う。渡しの起源はあきらかでない。大師橋架設により廃止された。昭和14年(1939)大師橋の架設により廃止

2、「大師の渡し(新渡し)」
 明治10年(1877)本羽田公園の近くから、葦(アシ)の茂った川原の細い道を1キロほど歩くと乗り場に着く。対岸は大師河原村字中瀬の船着き場。この渡しの利用者は羽田の半分以下といわれた。昭和14年(1939)大師橋の架設により廃止

3、「六郷の渡し」
 六郷の
渡しの始めは貞享5年・元禄元年(1688)である。江戸時代から186年間の長きにわたった「六郷渡し」は、明治7年(1874)に左内橋の架橋により廃止された。廃止時の六郷橋の船頭は28人であった、左内は、船頭達に250円という大金の補償金を支払った。

4、「小向の渡し」
 もとは荏原群にあった橘樹群小向村は、多摩川の流れが変わったため、現在では川崎市側に移ってしまった。そのため、畑に行くため渡しを造った。つまり果実積み出し作業のための「作業渡し」なのである。大正10年(1921)に廃止された。どこに渡しがあったか大田区側から確認できない。 川崎市によれば、正確な位置は分からないが、河川敷に「区民広場」と称する陸上用のトラックが作られている前面の辺りに違いない。この辺りは川岸が崩落下らしい。

5、「矢口渡し(古市場の渡し)」
 「矢口の渡し」の成立はいつかハッキリしない、私は江戸時代に川崎側からの新田神社参拝者が増えたため、「矢口の渡し」が造られたと考える。「太平記」巻33に延文3年(1358)10月に新田義興が奸計により死んだとの記述があることから、これ以前に矢口渡しがあったと考える。多摩川大橋の架設により、昭和24年(1949)に廃止された。

6、「平間の渡し」 
 『新編武蔵風土記稿』によれば、冬の10月から3月は仮橋を造り、渡船場付近を「萩原瀬」といっていた。明和3年(1766)から渡しの運上金を納めていることから、渡しの設立はかなり古いのではないかと言われている。その証左として正保年中改訂図(1644〜47)に渡しについて「船渡百間」との記述があります。
  渡しに繋がる平間街道は「品川道」とか「池上道」と呼ばれていました。明治9年(1867)に大森駅が開設すると、この道は品川より大森駅に向かう道として知られていました。昭和6年(1931)に都市化により廃止。

  この渡しの直ぐそばに造られたのが「ガス橋」です、この橋に人だけが渡れる2メートルほどの板橋を造りました。昭和6年(1931)のことです。その後、都市化により消滅したと言われています。

「丸子の渡し」
 古くは「まりこの渡し」と呼ばれています。多摩川の渡しでは一番古いと思われます。渡しの船は4艘、10月から3月までは土橋が掛けられて歩きました。土橋の長さは四六間(約151メートル)、幅は一間(3.6メートル)であったと言われています。昭和10年(1935)丸子橋架橋により廃止された。
 「丸子の渡し」のやや上流に「宮内の渡し」があったと言うが詳細は不明である。

《大田区の渡しイラスト》地図を拡大

ー下記、番号の渡し名ー

−01、羽田の渡し(六左衛門の渡し)

−02、大師の渡し

−03、六郷の渡し

−04、小向いの渡し

−05、矢口の渡し

−06、平間の渡し

−07、丸子の渡し

−08、宮内の渡し、作業用渡し

−09、下野毛の渡し、作業用渡し

−10、二子の渡し(世田谷区)

−11、宇奈根 の渡し(世田谷区)


〈参考図書〉
『都市紀要35 近代東京の渡船と一銭蒸気』編集・発行 東京都 1991年
『史話4号』六郷渡船との別れ―明治期の渡船資料― 三輪修三
『多摩のあゆみ28号』1982年 「多摩川流域の渡河点」内田和子
『六郷川』村石利夫著 有朋舎刊 1989年
『大田区史 下巻』大田区発行 1996年
 
 目次扉に戻る 次のページ・渡しについて