ー古代より人が住み、武蔵の国として栄えた「丸子の渡し」付近ー

着飾った娘を、洗濯している女が見ている。女中を連れて渡しに向かう大店のお嬢様であろうか。

「武蔵国調布の玉川」絵・一勇斉国芳(歌川国芳)名主印・濱彌兵衛・衣笠房次郎 天保14年から弘化4年(1843〜1847)版元・佐野喜 佐野屋喜兵衛 三枚揃 東京国立博物館蔵


多摩川とは……

 多摩川は、
山梨県の笠取山を水源として県境付近で柳沢川と合流、丹波川と言われる。氷川で北からの日原川と合流して多摩川となる。秋川・浅川も合流、大田区に入り田園調布、下丸子、六郷、羽田を経て東京湾に流入する。河口付近は六郷川と言われていた。全長138キロの一級河川である。

 写真は東急東横線の鉄橋で、右には東京の水道水を作った調布取水場の取水口が見える。1970年に廃止され、現在は使用されていない。川中の堰(せき)は海水が遡上するのを防いでいた。


一番古いか「丸子(上丸子)の渡し」
 
旧中原街道は、今では桜坂でも有名であるが、江戸時代は坂上から「丸子の渡し」まで、ほぼ直線の大坂(急な坂道)であった。人馬が登るのに大変苦労したという。坂の斜面には、人馬の滑落を防ぐため、横棒を差し込む穴が残っている。

  坂下には東光院があり、すぐ脇を六郷用水が流れていた。現在、ここに六郷用水を復元した場所(公園)がある。すぐに踏切となり前方に多摩川の土手が見える。踏切左には沼部駅がある。私には目蒲線として馴染みだが、平成12年(2000)に目蒲線の路線系統再編により、現在は東急多摩川線と呼ばれている。

 土手を登るとすぐ下は広い河川敷で、その先は多摩川である、その一直線上に「丸子の渡し」が見えたであろう。下沼部村と対岸の橘樹郡上丸子村をつなぐ渡し場であった。また「丸子」は古くは「まりこ」と発音された。

丸子の渡し(古くは「まりこ」の渡し
 この渡しの歴史は古く、おそらく上代(800年代頃)にまで遡ると言われている。渡しを守るための部落が成立し、「守子の渡し」などと呼ばれたのが訛り「丸子」となり「丸子の渡し」となったらしい。
 
『延喜式』によれば、小高(川崎市高津区末長)から多摩川を渡り大井(品川区大井)に向かう古東海道は、ここ丸子の渡しを渡ったと考えられています。その後の鎌倉・室町時代も同様の道を使ったと思われます。
 
鎌倉時代には「中ノ道」や「下の道」の重要な渡しでした。江戸時代になるまで海沿いの道(東海道)はありませんでした。徳川家康も江戸入府の頃は中原街道を使い入府した、江戸への玄関口として重要な渡しのひとつだったのです。

 

鎌倉から出発する「中ノ道」は、多摩川を「丸子の渡し」で渡り中原街道・大山街道を直進する、栃木の古河から奥州にむかう古街道である。中原街道は保土ケ谷辺りでは古東海道となっていたようだ。家康が愛した中原街道は、鎌倉に繋がる街道である。

丸子の渡し(丸子渡)渡船場ー10月から3月までの冬場は仮橋を用い。4月から9月までは船渡しである。水夫8人、定番1人が詰めた。馬渡舟(長さ10.8〜14.4メートル、幅3メートル、船数は初期には3艘、天保の頃から4艘になった。(日本歴史地名大系13巻『東京都の地名』平凡社発行・発売 2002年刊)



二子玉川に架かる橋の中央あたりから、冬場には富士山にかかるダイヤモンド富士の撮影ポイントだと言う。
 
写真は区立多摩川台公園の展望台、対岸は川崎市、天気が良いと夕方には富士山がシルエットとなる。この後ろに亀甲山古墳がある。現在の多摩川、丸子付近

 
「玉川鵜飼遊記_鵜に鮎を捕る図」原本・田中芳男著 絵・中島仰山、明治9年(1876) 東東京国立博物館蔵  

古来より多摩川は鮎が棲む
清流として知られる。江戸時代前期より「御菜鮎」と呼ばれた鮎を江戸城に上納していた。鮎の魚魚は簗漁、おとり漁、投網などあったが絵のように鵜飼漁も行われた。しかしこの鮎漁は鵜の嘴で魚が傷むので上納には適さなかった。(『多摩と江戸ー鷹場・新田・街道・上水ー』大石学編 たましん地域文化財団発行 けやき出版発売 2000年)



指定の亀甲山古墳 昭和4年(1929)指定
 都内最大級の規模を誇る、高さ9メートルの前方後円墳であるが発掘はされていない。おそらく、武蔵の国の国造クラスの墳墓と推定されている。このあたりは古墳が数多くあったが、大半は宅地開発で破壊された。

写真左は多摩川台公園となっており、登ると木の間から多摩川が見える。古代人も多摩川に落ちる大きな夕日を見ていたのであろう。縄文時代は地球温暖化のため、今より海岸線は内陸にあった。このあたりは海に近かった場所ではないだろうか。

公園から多摩川を見る
写真
踏切を渡ると多摩川の土手になる
 
写真
昭和時代の丸子の渡しについて……
 昭和7年(1932)の記録では、渡し船の大きさは長さ約13メートル 、幅約2.7メートルで2艘あったという。渡し賃は人が2銭、荷車5銭、人力車4銭、牛馬5銭であった。この渡し場付近の多摩川水深は、1.5メートルほどであった、これを平常水位としてこの倍の3メートルを超えると川止めとなった。このため丸子橋の架橋は近隣住民の悲願であり、昭和6年(1931)の決定まで3回の請願がだされた。丸子橋は昭和7年(1932)10月起工、昭和10年(1935)5月完成した。橋の長さは398メートル、幅11メートル、タイドアーチである。この橋の完成により「丸子の渡し」は廃止された。

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