猿坂の二本木あたり、左はバス通りから夫婦坂、右は嶺道から夫婦坂へ






 ● 猿坂(右)の二股分かれ道と馬頭観音の祠
 2007年


猿坂坂上
目黒道を歩く……3
 『新編武蔵風土紀稿』によれば江戸時代、林昌寺から猿坂まで鬱そうとした森があり猿が群生していたという。
この坂は「八景坂、山内の坂、猿坂」と三つしか『新編武蔵風土紀稿』に紹介されていない江戸時代の坂道である。


 
猿坂の登り口に小さな馬頭観音の祠(天保9年 根方邑 石工甚五郎の銘)がある。元は「上池台5-38-16」付近の道路脇に立てられていたが、品鶴線の土地買収により現在位置に移動した。昭和初期頃まで、題目講中の人たちにより大切にお参りされていた。その坂も、大正5年(1916)から昭和9年(1634)に掛けて行われた大森区耕地整理によりバス通りが出来てから、交通の主役は下のバス通り移った。

 子安神社の参道入り口に「耕地整理完成記念碑」(昭和17年)があり、その頃に耕地整理が完成したことが分かる。昭和40年代頃まで、現在、学習研究社ビルの周りは空き地や畑で、子供心に何故ビルが田んぼの中に建っているのか不思議であった。

夫婦坂への道は、馬込貝塚を縦断する道であった。明治42年(1909)頃には、江見水陰の冒険小説による紹介から、この貝塚を訪れる採掘者で賑わったようだ。結果、研究が充分にされないうちに貝塚は荒れ果てた。

猿坂の「馬頭観音」銘は、天保九戌年(1838) 根方邑(ねかたむら)石工甚五郎である。下の写真は猿坂の坂上から見た猿坂。

猿坂を登り切った所(上池台5-10-15)に、民家の塀に埋もれるように庚申供養塔(写真左)がある。享保8年(1723)の設立で目黒への旅の安全を祈ったものであろう。この道は池上本門寺をお参りして、最後は目黒不動から江戸に帰る行楽・参拝街道であり東京府下の府道(66号線)であった。
 
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