ー徳川家康が愛した相州街道(中原街道)は明治からは物流の道ー
2011.12.21 
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中原街道の歴史について……御酢街道・中原往還・相州街道・猿町街道・江戸間道
 江戸時代になり、東海道が整備されると中原街道は脇往還道になりましたが、急ぎの旅人や平塚の食用酢が江戸に運ばれました、そのため「お酢街道」ともいわれました。中原街道は明治時代から大正時代にかけて物流の道になりました。
 

  東京から川崎方面へ肥料(こやし)が運ばれ、川崎方面から野菜などが運ばれました。丸子の渡しでも、午前中は空桶を積んで東京へ向かい、午後は肥やしを積んだ帰りの荷車でいっぱいであった。このため「こやし街道」と言われました。
  人糞の肥やしは昭和11年(1936)頃も盛んに使用されました。大正から昭和初期頃には、この街道沿いの農家は東京市を控えた野菜生産地として発展しました。この街道は砂利道で起伏が多く馬車や荷車は難儀をしたと言います。坂道を一人で登るのは苦しく、後ろから押す人員が必要だった。馬にも厳しい道で、死んだ馬を弔うため馬頭観音の碑が所々に作られました。(写真下は中原街道沿い洗足池付近)


中原街道を歩く……
 中原街道は江戸城の「虎ノ門」を起点としている。ここから正月の名物の箱根駅伝と同じく桜田通りを行く。赤羽橋から慶應義塾前をすぎ、高輪台の坂を越え、五反田駅への長い下り坂を登る。環状六号線を越えると昔には「星製薬のビル」があったが、現在はTOCビルが立っている。この前で、海側の第2京浜国道と中原街道に分岐する。長い坂を上りきると洗足池までは平坦な道である。

 洗足池の近辺は盆地状になっており、下ると、そこから急な上り坂になる。途中には「馬頭観音供養塔」を兼ねた「道標」があった。(現在は移されている)これは江戸時代、荷物を運ぶ馬が急な坂の行き交いに力尽き、死んだことを供養するためのものである。


写真の「庚申塚」は洗足池から長い上り坂の途中にある。中原街道に面してあるのですぐに見つかる。写真右の狭い道は旧道で奥沢の九品仏浄真寺に行き着く。庚申塔の横に「從是(これより)九品佛道」と刻まれている。江戸後期の本『嘉綾紀行』村尾伯恭著にも紹介されている。洗足池を右に見て丸子方向に歩くと坂の途中にある庚申塚。南千束2-29-2   庚申供養塔兼道しるべを拡大


庚申塚写真
庚申供養塔兼道しるべ
中原街道写真
「雪が谷の尾根道」の歩道橋から見た中原街道、五反田方向を見る。上下車線とも坂道なので、上り車線の右折車のため中央車線が広く取られている。


坂を登り切ると左からのT字となる道がある、これは都立荏原病院につながる嶺道で、そこを下ると長慶寺がある。この道は、古くは「雪が谷の尾根道」と言われた。なお歩くと林昌寺の前の道をすぎ、第2京浜国道にぶつかる、これを渡ると大房本行寺の前に出る、なお歩くと本門寺山門に出る。江戸時代には本門寺に参り、その後、上記の道を歩き中原街道から江戸に帰るのが、ひとつの行楽コースとしてあったのではないか(別名目黒道)。

中原街道は「雪が谷の尾根道」を過ぎると下り坂になる、石川橋で「呑川」をわたると登ると雪谷大塚になる。田園調布警察に面した環八をすぎると丸子橋まで緩やかに下っていく。降りきったところが「丸子の渡し」であった。

 大正9年(1920)4月、下大崎・川和線として認定された。また現在の道は、昭和10年(1935)に改修され、坂のきつい沼部大坂は新道を造り緩やかに橋までつながった。古い中原街道は桜坂の道・大坂である。
 多摩川の対岸は川崎市中原区で、昔は小杉村で宿屋もあった。現在の中原街道は広く幹線道路化しているが、江戸時代には狭く曲がりの多い道であった。川崎市に入った中原街道は、急に狭くなり旧道になる。そのまま行くと藤沢市を過ぎて茅ヶ崎から海岸線に出る。

川崎方面から「丸子の渡し」>を越えると中原街道(家康が好んで使った、江戸時代に名付けられた)で江戸方面に、また池上道に向かい品川方面に行くこともできました。おそらく、鎌倉下ノ道もこの渡しを渡ったのでしょう。

 

中原街道の都立荏原病院付近は、大田区でも高いところである。その証拠に「雪が谷の尾根道」沿いの洗足池に下る坂道は、勾配が14パーセントもある。これぐらいの勾配だと登るにも難儀である。また、昔は洗足池より流れ出す水も多く、呑川に流入していたが、現在では湧き水の量は少なくなっている。
交通標識は道路の状況を表すと同時に、土地の姿を示す時がある。地図で確認すると、左の勾配標識は昔ここが台地であり、古くはここが武蔵野台地であることが分かる。

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