― 鍛治橋狩野家・浜町狩野家・木挽町狩野家―
写真 榮川古信墓
「狩野栄川古信(えいせんひさのぶ)の墓」(1696〜1731)戒名・法性古信日是大居士、木挽町狩野家4代目。享保13年(1728)に父周信(ちかのぶ)の跡を継ぎ法印に叙せられる。司馬江漢の最初の師匠であった。享保16年(1731)早逝したため作品は少ない。

古信が仕えた八代将軍吉宗は中国古画の愛好家であり、「瀟湘八景図」は特に愛着が強く、ばらばらになった八景を再現すべく集めてない絵は狩野家の粉本で補ったという。この仕事にも古信が全てを臨模したと伝わる。
栄川古信の作品
 
写真 随川岑信墓
「狩野随川岑信(ずいせんみねのぶ)の墓」(1662〜1708)浜町狩野家 戒名・覺樹院殿岑信大盛日量大居士宝永4年(1707)、

  狩野養朴常信の二男である。幼名は吉之助、通称は主税、号は覚柳齋、寛永4年11月(1627)、将軍家宣より格別の寵愛を受け、特別に松本姓を賜り友盛と称す、翌年には奥絵師になり浜町狩野家の始祖となる。墓は亀趺(きふ)型である。
  

(注)文中の戒名は池上本門寺『池上本門寺の狩野家墓所』パンフレット の記載による。狩野家の菩提寺である「南之院」に残されている狩野家の位牌に書かれている戒名である。狩野家参照本は狩野家系図ページにあります。

写真 榮川院典信墓
「栄川院典信(えいせいいん・みちのぶ)の墓」(1730〜1790)戒名・法壽院殿榮川院法印白玉翁典信日妙大居士 寛政2年(1790) 木挽町狩野家六代目である。 
 徳川家治の寵を受ける。木挽町に屋敷を賜り木挽町狩野家となる。以後の狩野家絵師の中でもっとも重用された。彼は狩野家本来の力強い筆線(漢画)を取り戻し、狩野派の衰退を救った。これにより木挽町が狩野派筆頭となる。また、老中田沼意次と仲が良かったという。代表作は「夏冬山水図」「鷹狩図」三幅対などがある。
写真 養川院惟信墓
「狩野養川院惟信(ようせいいん・これのぶ)の墓」(1753〜1880)戒名・養川院殿玄之斎法印惟信日詔大居士 文化5年(1808) 木挽町狩野家の七代目、典信の長男である、父の跡を継ぎ奥絵師となり、後に法印になる。

写真 春川友信墓

「狩野春川友信(しゅせんとものぶ)夫妻の墓」(1843〜1912)春川院殿友信日聖居士・淑徳院妙順日賀大姉 浜町狩野家九代目 『明治になりアーネスト・フェノロサを招いたことは有名である。』

(『日本の美術 NO.262 江戸の狩野派』細野正信 監修・文化庁・東京国立博物館・
京都国立博物館・奈良国立博物館 至文堂刊
写真 伊川院榮信墓
「伊川院榮信(いせんいん・ながのぶ)の墓」(1775〜1828)戒名・伊川院殿玄賞斎法印榮信日宣大居士 木挽町狩野家の八代目、古画の学習に力を注ぐ。法眼は1802年、法印は1816年になった。 


写真 常川幸信墓  
  写真 麻布一本松狩野家墓
上の写真は「狩野常川幸信(じょうせんゆきのぶ)の墓』(1717〜1770)戒名・随柳斎幸信了性日明居士 明和7年(1770) 浜町狩野家の三代目、狩野邦信の次男である。

「麻布一本松狩野家の墓」大正14年(1925)とある、元は、松栄直信の子である休白長信から分かれた、休円清信(きゅうざんこれのぶ)が祖であり、七代休山まで続くが詳しいことは不明。
参考・狩野4家と表絵師
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中橋狩野宗家  ページ2   ●木挽町狩野家   ●鍛治橋と浜町狩野家の墓域地図

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