ー江戸時代、将軍家御鷹狩り場として殺生を禁じられた村ー

地図について……
 
左の写真は、昭和2年(1927)発行『入新井町誌』(入新井町誌編纂部 岩井和三郎発行)の口絵地図である。江戸時代の六郷領の概略を示している。
  斜めに横切る平間街道と平行する六郷用水(下側)が見える。ほぼ中央で六郷用水に合流するのは、北馬込に源があった内川ではないか。六郷用水は不入斗(いりやまず)村に入ると二つに分流している、東海道から平間街道に至る「不入斗道」を越えたところから六郷川を目指して、最後に直角に曲がり東京湾に注ぐ。
 中央折れ線部分が「不入斗道」で、東海道と平間街道(旧池上道)をつなぐ府道である。
明治の新井宿村・不入斗村全図を見る  


江戸将軍家の御狩場
 
新井宿村(あらいじゅく)の左部分と不入斗村左上部にかかる薄い水色部分は、江戸時代、将軍の「御狩場」である、ここは鶴御飼付場として将軍鷹狩りのために殺生を禁じられた。御鳥見衆は幕府士分以上の者があたったが、餌蒔(えさまき)は八代将軍吉宗治世の時から、吉宗縁の田丸領から橋爪氏が召し出されて役に付いた。
  上記の『入新井町誌』(非売品・昭和2年10月20日刊)にその由緒が載せられている。それによれば、八代将軍吉宗に伊勢の田丸領より召し出され、橋爪岩次郎氏先祖が御鳥見役を務めたと言われる。
八代将軍吉宗の鷹狩り  大田区の御狩場

  川瀬巴水新版画
東京20景 「池上市之倉 夕景」
昭和3年(1928)
版権所有・渡邊庄三郎 大田区立郷土博物館蔵
拡大表示 川瀬巴水解説 

背景は多摩川、松林は多摩川土手かも知れない 。

入新井村の誕生

  不入斗村(イリヤマズ)、現在の大森北1ー6丁目、大森本町1丁目である。室町時代頃は「不入読」(フニュウトウ)とも言われた。明治22年(1889)に町村制が施工され、新井宿村と不入斗村が合併し入新井村が生まれた。
『不入読(フニュウトウ)の地、すなわち免租地であった、それが類音をもって不入斗(イリヤマズ)となったのである。訓で読めば不入読はイリヤマズである』(『武蔵野の地名』中島利一郎著 新人物往来社1976年刊)

 室町時代頃、この地は大井郷に含まれていた。江戸時代は幕府領、品川・東海寺領となり、村内は東海道に面しており鈴森刑場も含まれていた。現在、この地名は使われていない。


大森村、現在は大森本町、東、西、北、中、南町と北糀谷1丁目を含む複雑な地域である。全て幕府領で東海道に面していたため、和中散麦わら細工の店があった。また、面した海では海苔が作られ、江戸海苔(浅草海苔)と称された。


市ノ倉村(市野倉村)、現在の中央4丁目ー7、池上1丁目 、南馬込6丁目を含む。江戸時代は幕府領であり、東海道品川宿の助郷(すけごう)を命じられていた。当時の戸数は30戸、人数は143人ほどであったらしい。


新井宿村、現在の山王1ー4丁目、中央1ー7丁目、南馬込3ー4丁目、大森北・西の一部と品川区の南大井6丁目を含む。江戸時代より木原氏の所領となり、将軍鷹狩りの時は陣屋が置かれた。義民伝承の舞台でもある。八景坂は古来「荒藺ケ崎」と称された景勝の地とも言われている。八代将軍吉宗の鷹狩り 

『有徳院加筆鷹画草稿』絵・狩野古信 江戸時代 東京国立博物館蔵 拡大表示 

『放鷹 の時もお供に召し加えられて、景勝の地にいたれば、必ず真図を作らしめらる。既に小原御狩りありしにも陪従して、その様を図せしめ、後に屏風に押されけるとぞ。ことさら鷹の図は、御教えを加えられしにより、詳密にいたりしとなむ。(略)中にも鷹の木にとまれる様は、むかしより名画にも、いまだに真を得し者まれなりしかば、常に御思惟ありて栄川が描きしを御筆の加わりし粉本ども今も家に蔵せり』(『徳川実記』付録十六)、吉宗の加筆は、爪の所と墨のところで有るらしい。(参照・『狩野派の三百年』江戸東京博物館 平成10年刊)


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