ー日蓮上人の佐渡配流を影から守護した長栄大威徳天を祭る 長栄稲荷社ー
キツネの神使写真
長栄稲荷社の長栄大威徳天……


日蓮宗本門寺には、神仏習合の形として18に及ぶ神々が勧請されている。その一つが当山の守護神として安置されている長栄稲荷の「長栄大威徳天」である。高祖日蓮が佐渡島に配流されたとき、法華経の行者として現れ守護をして、海上の安全など高祖御一生を影から守護したのが長栄大威徳天である。当稲荷社は仏教系稲荷社と言われる。
 このことから、海上安全、道中安全の稲荷として戦前は大いに繁栄したという。長栄稲荷は「此経難持坂」を登りつめた右側に「長栄堂」「稲荷堂」と呼ばれる稲荷社である。
 長栄稲荷は江戸時代には宗祖日蓮との結びつきを語る縁起から、日蓮上人警護の守り神として信仰の先達的役割を持ち人気を集めたという。


明治の廃仏毀釈でも長栄稲荷は単なる稲荷ではなく、法華経序品第一にみえる大威徳天の化身として本門寺守護神としての役割が強く正当化された。そのため、前にも増して繁栄していった。その一つの証左として、明治34年(1901)の本門寺客殿、書院の火事にも長栄稲荷は焼けなかったことにより、長栄稲荷は「ながきにさかえ」と語呂合わせのように人気が出て爆発的に流行したのである。

御会式で「火消し装束で纏(まとい)を振る仕草」始まりはここから始まった。参詣に訪れる法華講中は多かったが、特に浅草下谷地域講中の人気は高く、消防第五区の第一番から六番までの人々が、明治43年(1910)、熊谷稲荷を勧請する法養寺が、本門寺に合併移転されたことにより本門寺に参詣するようになった。彼ら消防団から、お会式には消防団火消し装束で纏(まとい)を振り、景気をつけながら集まって来ることが始まった。これがお会式の風景として定着し、現在も続いているのである。

下の写真は長栄稲荷の紋章である。豊農を祈る稲穂がシンボルである。消防団の寄進であろう「消防用水の形」をしている

キツネ右側写真キツネ江戸時代写真

江戸時代には民間信仰が盛んになった。
  現世利益を求める「稲荷信仰」が盛んになり、享保年間(1716-1736)になると、熱狂的な流行神(はやりかみ)の様相を示した。池上本門寺でも長栄稲荷のお参りが、1日の行楽を兼ねた参拝者でおおいに流行ったと言われる。

明治から大正にかけて繁栄したが、明治35年(1902)の「風俗画報」などにも賑わいが掲載されている。昭和10年(1935)以降になると長栄稲荷は、法華経信者以外にも霊応を振りまく地神として変化していった。
 しかし、昭和11年(1936)に「羽田の長妙講」の鳥居建設をきっかけとして「本門寺境内に鳥居があるのはおかしいと」の声が起こり、その人気にも衰えが始まり、第二次世界大戦の戦火による消失から再建されたが、かつての信仰を取り戻すことはなかった。ついに昭和51年(1976)の境内整備により鳥居も撤去された。

写真は現在の長栄稲荷社である。鳥居は石段の上に作られた。
 
上の写真は水引虹梁、左右文様は稲荷神社をイメージした稲穂の姿である。

唐破風の向拝を持つ、長栄稲荷の正面。木鼻は龍である、スタイルを見ると江戸末期建築装飾であるが、第二次世界大戦末期、昭和20年(1945)4月15日の空襲で焼失した。戦後の再建にどのような要望をしたのか興味がある

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