2013.09.24更新

御会式について
 
御会式または御命講とよばれる宗教行事は、関東随一の祭りである。一説には720年の歴史を持つと言うが、盛んになったのは江戸前期、本門寺の山号額の長榮山の榮の字が「火除け」の意味をもつことから、火事の多かった明治の火消し達(浅草下谷消防団が始めた)が、町内の日蓮宗講の人たちと共に「火消し装束」で参詣に訪れた事による。万灯は日蓮入滅の時、枝垂れ桜が満開であったため、その花を現したものである。
 
  それらの故事から、万灯供養の行列は、日蓮聖人の忌日10月13日に、火消し装束で纏をかざし、万灯を振りかざし笛や太鼓を奏でながらやってくるのである。夜七時頃、各地の講の万灯供養の行列は、池上本門寺を目指してくる、古くはロウソクの光で輝く万灯が、此経難持坂を登る光景は幻想的で美しい。広重の浮世絵にもなっている。まさに関東随一の祭りである。




踊りながらやって来る万灯供養の行列

池上本門寺の御会式について……

『大東京併合記念 池上町史』(町史編纂会発行 昭和7年9月24日)に御会式の事について書いてある。(内容について簡略に紹介する)

 徳川幕府の初期の頃、不受不施の乱により御会式は、一時衰退したが年を重ね盛んになっていった。八代将軍吉宗治世の頃(1716〜1745)、身延山開帳に出立するため品川海徳寺に講中が集合した時、神田の講中が芝三田の三河屋(煙草屋)の暖簾を借り、これを目印に使ったことが「旗幟」の始まりという。これ以後、各講中が思い々に工夫を凝らし、旗幟、花車、萬燈に揃いの着衣・手拭い、花笠、草履を競ったという。文化以後天保の頃は、旗幟も大きくなり中央に御題目を書き、両端は金色の登り龍が描かれたものを牛車に引かせるまでの隆盛を極めた。しかし天保の改革に豪奢なものは禁止され、これ以後、明治時代頃まで各行灯(あんどん)式の大萬燈が作られるようになった。今日では形も様々になり、東京を中心として各講中は必ず萬燈を出すことになった。

萬燈と纏(まとい)の始まり
 萬燈太鼓の始まりは、中山法華寺 付近に太鼓の霊場があり、講中が打ち始めたのが他に広まったらしい。また別の説では、泉州堺の歌題目踊りに太鼓を叩いたのが起源とか諸説ある。
 
火消し装束は、明治43年(1910)、下町の熊谷稲荷を勧請する法養寺が、本門寺長栄稲荷に合併移転されたことにより団信徒が池上本門寺に参詣するようになった。特に浅草下谷地域の講中の人気は高く、消防第五区の第一番から六番までの人々が、お会式には消防組の火消し装束で纏(まとい)を振り、景気をつけながら集まって来ることからから始まったと言われる。


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