《江戸から明治にかけて憩いと歴史の舞台になった梅屋敷》

 明治に出版された『風俗画報』(東京近郊名所図絵 第11巻・86)より「蒲田梅園行方弾正宅跡」明治44年(1911)4月号。

 明治22年(1889)から大正5年(1916)にかけて出版された我が国初めてのグラフ雑誌、別冊も含め518冊あり、江戸・明治・大正の世相・風俗・歴史・文学・事物・地理などを知ることの出来る雑誌である。東陽堂より出版された。

画は山本松谷(やまもとしょうこく)明治3年(1870)生まれ、昭和40年(1965)没。明治・対象の画家、。『明治27年グラフ誌「風俗画報」の絵画部員となり,20年間に表紙,口絵,挿画など1300点をえがき,報道画家として名を知られる。日本画「野路の雨」「富岳」などの作品もある。昭和40年5月10日死去。94歳。高知県出身。名は茂三郎。別号に昇雲,小斎』(日本人名大辞典)

「蒲田梅園行方弾正宅跡」画・山本松谷、解説・山下重民、石版画 明治44年4月号「馬込と大田区の歴史を保存する会」所蔵 拡大表示

風俗画報の解説は、山下重民(やましたしげたみ)
 
  安政4年(1857)生まれ、昭和17年(1942)没、安政4年生まれ。幕臣山下重禄の長男。太政官(だじょうかん)につとめ,明治12年大蔵省記録局にはいる。22年創刊の日本初のグラフ誌「風俗画報」に寄稿,27年役所勤めのかたわら編集長となる。画家山本松谷(しょうこく)とのコンビで当時の事件や風俗を活写した。昭和17年7月18日死去。86歳。幼名は金次郎。号は鶯陵迂人。(日本人名大辞典)
 
  解説より、『梅の里は東海道の西傍に在り。亭の名を山本といふ、園はひろやかにして池あり、折り曲がりて渡せる橋を御幸橋とぞいふ(中略)、小高い丘に一株の松あり。之を御影の松といふ』『むかし行方弾正といふ人住みける跡、かえるさいには名物なる梅漬け梅ひしほを土産とする』

 
浮世絵 蒲田の梅園
「名所江戸百景 蒲田の梅園」
歌川広重(1797-1858)安政四年

武蔵風土紀』によると平安の頃より、ここは「梅木村」と言われていたようです。今では家々が立ち面影はありませんが、南は東京湾に面する温暖な土地のため、村の家々は庭に梅の木を植え、果実を採取して梅干しなどを作っていたようです。

 江戸時代になり東海道の往還が増えると、三軒あった道中の常備薬(和中散)を売る店のひとつが、庭に梅の木を増やし「休み所」を開きました。他の店も真似をして開きましたが、もっとも繁盛したのが「梅屋敷」です。開業は享保年間(1711)頃、発祥の地、近江の流れをくんで造られました。
 その後、忠左衛門が譲り受け北蒲田村に移転しました。忠左右衛門の子である久三郎の代に、庭に梅木を集めて休み茶屋を開く、これが今も残る『梅屋敷』(久三郎の梅屋敷)である当初は茶と梅干しなどを出していましたが、酒肴なども出すようになり人気を呼んだようです。敷地は全部で3000坪もある広大なものでした。

 将軍が鷹狩りの休息所として立ち寄り、幕末には勤王の獅子たちも会合の待ち合わせ場所として利用したようです。江戸に近く東海道の要所にあることが便利だったのでしょう。歴史的に良く知られた事件として「梅屋敷事件」があります。

「梅屋敷事件」とは
   文久2年(1863)11月13日、高杉晋作・久坂玄端らの横浜襲撃計画を知らされた長州藩世子 毛利定広は、止めさせるため藩士11人を向かわせ、自らも説得のため出向き、高杉らを待ったのが梅屋敷だったのです。説得には成功しましたが、その後の酒宴で周布政之助が土佐藩主山口容堂を非難誹謗したことにより土佐藩士との間で諍いとなりました。これが、梅屋敷事件と言われるものです。

明治元年頃には、門前に100台もの人力車が客を待つほど繁盛をしました。しかし、ダイヤモンド事件といわれる事件をきっかけに梅屋敷は没落していきました。
  大正7年(1918)の京浜国道の拡張工事により東側が大幅に削られた。また、西側は鉄道を建設するため京浜電鉄社の所有になり狭くなりました。  関東大震災(1923)で邸内には多くの避難民が入り住み込んだため荒廃していきました。その状況を憂い保存会が出来ました。荒廃を防ぎ現在は公園(左の写真)となっています。しかし石碑以外に梅屋敷の存在を示すものは何もありません。
 
写真 石碑
場所 京浜急行梅屋敷下車、京浜第
一国道 (国道15号線)歩いて5分。
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