現在、西馬込では見られなくなった、幻の「馬込大太三寸人参」
2015.01.19
更新


馬込大太三寸人参……
 
馬込では、野菜づくりの伝統を受け継いだ地元の篤農家・河原清吉氏らによって「馬込大太三寸人参」(まごめおおぶとさんずんにんじん)が造られた。昔から荏原郡では、滝野川種の「長人参」が栽培されていた。赤土の上に黒ボク(黒土)が厚く堆積している土壌が人参の栽培に適していたためである。大正の初期頃から、砂村三寸(西洋ニンジン)や川崎三寸(西洋ニンジン)の人参を栽培していた、その経験から、両者の良いところを受け継いだ。

 この人参は色や味も良く、農家にとっては年に2回の収穫できるうま味もあり、歓迎されて大田区から全国へ広まっていった。古く江戸時代、人参は根だけでなく葉も食べられ「胡麻味噌和え」に使われた。全部が食されていたが、現在では根のみが食べられているようになった。

カレーライスにぴったしの大太三寸人参
明治時代のカレーライス普及と共に、大量に消費されるようになった。昭和25年(1950)に、大森東部農協が「馬込大太三寸人参」の名前で農林省に種苗名称登録をした。一時は馬込の農家で盛んに造られたが、「馬込大太三寸人参」も宅地化が進んだ昭和37年(1932)頃には作られなくなった。
 『江戸・東京ゆかりの野菜と花』企画・発行JA東京中央会 1992年発行

下の写真は、篤農家「河原清吉氏」子息の方から頂いた。写真の「馬込大太三寸人参」は、菜園から2007年3月23日早朝に収穫したものを頂いた。スーパーなどに流通している現在の長くて細い人参と違い、太くて短く、根の先が丸みを帯びているのが特長である。生で食べてみると柔らかくて甘い。

残念なことに、両方とも馬込地区の宅地化が進んだために畑が減少して、昭和38年(1964)頃には姿を消してしまった。しかし、ゆかりの人達は今でも個人的に栽培されおり、「原種」を絶やさぬようにしているのである

写真 馬込大太三寸人参写真
古い写真 研究ノートから 写真 馬込大太三寸人参写真
写真 研究ノート 河原良助氏 所蔵

写真は、河原清吉氏が改良を重ねるため、工夫シタ研究ノートをお借りした。〈馬込大太三寸人参〉
長さ10センチから13センチほど(写真はやや小振りのもの)、太さ7センチから9センチぐらいまで、柔らかく甘い、根の先が丸くなっている。
(禁無断転載)

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他の三寸人参について
 
  徳川幕府崩壊間近に開港された横浜港は、開港と同時に西洋人が住むようになりました。彼らは色々な生活必要品を持ち込みました、そのひとつに西洋野菜があります。日本にも大根、ゴボウ、里芋、那須、ほうれん草などがあり加熱して食べていましたが、食べたい野菜がない場合、彼らは自分たちで野菜の栽培を始めました。レタス・パセリ・キャベツ・カリフラワーが栽培に成功したと初代駐日総領事ラザフォード・オールコックが書いています。(『大君の都』参照)その後、神奈川奉行が吉田新田で西洋野菜栽培を奨励し始まりました。その後、はっきりした時期は解りません、神奈川区子安の精農家が、オックスハートという短円錐形品種に改良したのが「子安三寸人参」(別名 横浜三寸、金港三寸、仏向三寸)と呼ばれた人参です。昭和50年代までこの地で栽培されたようです。
 馬込大太三寸人参の元になった川崎三寸も子安三寸の別名かも知れません。


  馬込特産ー馬込半白節成胡瓜の種子が公的機関に保存されました。
 1.農業生物資源ジーンバンク
 2.東京都農林総合研究センター
 3.東京大学大学院農学部生命科学研究科

今まで種を受け継ぎ守って来た方達も高齢に成り、徐々に保存が難しい状況になりかねません。そこで江戸東京・江戸野菜研究会・代表大竹道茂氏にお願いして保存へ動いて頂きました。その結果、上記の機関に保存されました。大竹道茂氏には大変お世話になりました、厚くお礼申し上げます。大竹道茂氏のブログ案内は前のページにあります。
 

『伝統野菜をつくった人々「種子屋」の近代史』阿部希望著 農山漁村文化協会(農文協)刊 3500円(プラス税)詳細を見る
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