ー月岡芳年が描く、恋い焦がれ火の見櫓で半鐘を乱打する八百屋お七ー



八百屋お七とは……
 
  本郷の八百屋娘お七は、天和2年(1682)の火事で避難した寺(吉祥寺)で寺小姓の吉三郎にあい恋に落ちたといいます。家の再建が出来あがり家に戻りました、しかし、どうしても吉三郎を忘れることが出来ません。娘の一途な思いは、「もう一度火事があれば会えるかも知れない」と言う恐ろしい考えに思い至り、ついに放火をしてしまいました。

 放火の罪で捕まった彼女は、鈴が森で火刑になりました。天和3年(1683)のことです。不思議なことに江戸の庶民は、彼女の娘心を哀れみ、地蔵を祀ったとのことです。

八百屋お七が知られるのは、井原西鶴(1642〜1693)が「好色五人女」に登場させたからである。それは巻四の「恋草 からしげ八百屋物語」(貞享3年2月)である。井原西鶴も謎の多い人物であり、大阪の誓願寺に葬られたが、江戸後期には忘れ去られ、今のように全作品が知られるようになったのは、昭和10年(1935)以降の事である。(
参考・『江戸の放火 火あぶり放火魔群像』永寿日朗著 原書房 2007年巻)

画題「松竹梅湯嶋掛額」絵師・一勇斎芳年(1797〜1891)版元・松井栄吉、明治18年(1885)
  月岡芳年が描いた錦絵(竪二枚)「八百屋お七」である。半鐘を打ち鳴らすため、火の見櫓を登るお七の可憐な姿が哀れである。

東京国立博物館蔵


中央が「お七地蔵」である。左は寛文2年(1662)の庚申塔「阿弥陀如来座像」、右は寛文3年(1663)の庚申塔「観世音菩薩立像」である。保存のため屋根が作られている。

八百屋お七地蔵
大森駅近くの八幡山蜜巌院にある「八百屋お七地蔵」は俗に「お七地蔵」といわれ、民間伝承ではお七が処刑された鈴が森から一夜で密厳院に飛んできたそうです。蜜巌院に飛んで来たわけは、この寺が近隣(磐井神社など)の寺社を束ねる別当の大寺であったからである。 蜜巌院台石に彫られた碑文に貞享2年(1685)とあり、歌舞伎などで「八百屋お七」が取り上げられ、騒がれ始めた頃に造立されたのです。おそらく小石川の百万遍念仏講中の人たちが造った地蔵様かも知れません。当初の地蔵は振り袖を着ていました。(右のお地蔵様)

可憐な「八百屋お七」の誕生……
 人形浄瑠璃の『伊達娘恋緋鹿子』(だてむすめこいのひかのこ)から、雪の夜、火の見櫓に登り半鐘(または太鼓)を打つお七の姿が知られるようになりました。『火事ならば町の木戸が開く、彼(寺小姓吉三郎)に会い刀をわたすことができる』その思いひとつで、禁じられた半鐘を乱打するお七の姿が観客の涙を誘ったのです。お七が放火の替わりに櫓の半鐘を打つ演技が登場したのは、「八百屋お七恋江戸紫」三世津打治兵衛作 中村座(1766)からと言われています。このため於七の浮世絵には火の見櫓が描かれることが多い。
 歌舞伎では大阪の荒座で、嵐喜代与三郎が演じる「お七歌祭文」が当たり、それから女形が演じる演目になったといいます。特に4代と5代の岩井半四郎は評判が良く、演じる「お七」は江戸を代表する女形の演目となったといいます。歌舞伎と人形浄瑠璃の関係は深く、歌舞伎で演じられるときは、役者が人形の動きを模倣した形になります。その動きは心理状態が異常に紅葉した状態を見事に演じるのに適しています。歌舞伎では「人形振り」といい、他には「神饌矢口渡し」や「妹背山道行」などにみられます。実際の歌舞伎の舞台では人形遣いに扮した黒子が登場します


歌舞伎では『八百屋お七』と言っても幾つかの演目があります。筋立てが違います。(次のページに詳細)

映画では「八百屋お七 振り袖月夜」のタイトルで、美空ひばりが「八百屋お七」を演じています。昭和29年9月7日(1954)松田定次監督 東映京都撮影所 モノクロ 他に美空ひばりの相手役に中村錦之助、堺 駿二の出演です。
 

ー八幡山密厳院(みつごんいん)のお七地蔵ー   お七 2枚揃い浮世絵

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写真 密厳院
真言宗の寺、八幡山 密厳院山門
  明治初期まで大森付近14カ所の神社の別当であった。城南地区の三大大寺のひとつである。戦火で太子堂を残し他は消失した。現在は改築されており、境内には本堂らしい屋根瓦の建物はなく、お寺らしい雰囲気はこの門構えだけである。鈴ヶ森八幡祠の別当を兼ねていた事から、八百屋お七の遺体を引き取り埋葬したと伝わる。そのためにお七地蔵があると言われる。

八幡山密厳院 大森北3ー5ー4   鈴ヶ森刑場を見る

川越にもある八百屋お七ゆかりの寺 大連寺
写真 大蓮寺お七を教えた手習いの師匠ー「藤田貞陸」の話、川越の浄土宗の大蓮寺には、お七に手習いをした藤田貞陸の墓が現存します。江戸時代、浪人していた武士が、町人の子供たちに習字を教えることは普通でした。お七16才の頃に教えていたようです。その後、川越の秋元侯に仕官をして100才まで生きたと言います。詳しくは下記の「大蓮寺ホームページ」をご覧下さい。
       川越 浄土宗の寺 大蓮寺

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