ーギメ美術館で発見された法隆寺の仏像ー
2003.10.23


  地に落ちた聖徳太子
の価値

  明治初年から吹き荒れた神仏分離による、神道の国家宗教化の流れで、大きく影響を受けたのは奈良の寺院である。

 今からでは信じられないが、戦後世代が修学旅行で訪ねる法隆寺も廃仏毀釈の影響を受けた。法隆寺に祀ってある聖徳太子は仏教を擁護し、天皇を蔑ろにした人物として糾弾され、声望は地に落ちた。前から国学の新井白石などは聖徳太子を良くは言っていませんでした。それが神仏分離と、それに続く廃仏毀釈によって一気に吹き出したのです。この時、法隆寺から宝物が持ち出されました。分かっているものは、橘婦人厨子の二枚の扉、五重塔塑像、舞楽面などである。

 1878年に、法隆寺は聖徳太子に関する宝物(300点あまり)を皇室に献納した。その見返りに一万円が下賜された。これが寺の修理や維持していく資金となった。この時の献納物が、東京国立博物館所蔵の「法隆寺献納宝物」である。しかし「聖徳太子三尊像」など一部に一般公開されないものもある。
 確かな記録はありませんが、多くの仏具や仏像・仏典が持ち出されたことでしょう。その証拠が1994年、仏像発見として報道されました。

1994年9月9日 日本経済新聞「流浪の菩薩、仏縁で里帰り」より
 
  フランス パリ ギメ美術館でベルナール・フランクにより、阿弥陀仏の脇侍、勢至菩薩らしい仏像を発見した。1991年のことである。当初は分からなかったが、翌年、法隆寺金堂西の間に安置されている本尊阿弥陀仏の脇侍の一対が不明であると分かった。不明の仏像はこれに違いないと確信したが、日本の仏教美術の権威である久野健氏によって、明治時代に行方不明となった法隆寺の勢至菩薩であると確認された。
 このように不明になっている仏像などの多くが、明治の混乱期に海外流失してしまったのであろうか。それとも、鎌倉時代にも戦乱で多くの宝物が散失した。この時、法隆寺には30を越える倉があったがひとつを残し失われたという。 法隆寺によれば、この仏像は明治14年(1881)に金堂から盗難に遭ったという。しかし、ギメの購入記録によれば、明治9年(1876)に中国の仏像として買ったとある。年代のずれがあり不思議なことである。

左がギメ美術館にあった勢至菩薩、右は法隆寺にある菩薩。平成6年里帰りをした法隆寺で『国宝法隆寺展』で展示された。

1.いまだ不明の「釈迦および脇侍像」の脇侍

著者の久野氏の説明文から、舟形光背の文によれば、この像は蘇我大臣のために、628年に造られたと言う。様式は止利(とり)様式に属し、この像独自のものがあるという。現在、左脇侍のみが残り、右の像があったのか、右の像も別の像を持ってきたのか不明だと書かれている。


1966年、小学館発行の原色日本の美術シリーズ。第二巻「法隆寺」久野 健著より。
右は、大宝蔵殿にある菩薩像
銅造、 高さ67.5センチ
〈参考〉 『日本の開国』尾本桂子・フランシス・マクワン著 (株)創元社発行1996年
『法隆寺』久野健著 (株)小学館 1966年 原色日本の美術シリーズより
『聖徳太子』吉村武彦著 岩波新書 769 2002年
『芸術新潮 皇室をめぐる名品物語』 新潮社 1986年11月号

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