ー東京奠都(てんと)までの流れ、紛糾する新政府内部の意見ー


〈1、大久保利通による大阪遷都論〉

鳥羽伏見の戦いに勝利した官軍の大久保利通は、総裁有栖川宮熾仁親王 に、天皇の大阪行幸を進言した。慶応4年(1868)1月17日のことである。

 大久保の意図は、「鳥羽・伏見の戦い」に勝利したとはいえ、徳川幕府と薩長連盟の戦いと見られている。そのため、王政復古による「天皇親政の政治」の時代が始まったことを明確にする必要がある、それには旧習に捕らわれている京都から、都を大阪(浪速)に移すことがイメージを一新することが出来ると考えていたのである。大久保は見えない天皇から、庶民から見える天皇にすることで、「天皇親政を進めることが大事である」と信念をもっていた。彼は宮廷革命を意図していたのである。

 もちろん遷都があるらしいとの噂があったが、大久保のような新政府の参与の言葉である、単なる進言ではなく実行の可能性があると捉えられ、大騒ぎとなった。特に京都の人々は大変な驚きであった、戦火に耐えやっと首都になると思ったのに「大阪に遷都する」などとんでもないことであった。蛤御門で焼け野原になったのは京都ではないか、戦火の中を逃げ回ったのは我々ではないか。これが大坂人の心境であった。大久保は旧弊たる公家達から政権を離し、新しい天皇政治を目指して都を移すことを考えたのである。

 大久保の「大坂遷都建白書」が提出されると公家を中心とした猛烈な反対運動がわき起こった。そのためややトーンダウンした「大坂行幸」が、大久保達の奔走でとりあえず1月29日に決定された。3月21日御出立、23日大阪本願寺別院に到着、6週間余りの滞在となった。

4月9日、大久保利通は天皇に拝かつしている、当時の無位無官の大久保では御所では拝かつすることは出来なかったのである。自由に天皇に会うことが出来ること、これも大久保の朝廷改革のひとつである。王政復興で公家達は昔のように戻ると思っているが、そうではなく、新政府が天皇のもとに政治をするのである。古い朝廷も大胆に改革するつもりである。その第一弾として、4月21日「天皇親政の布告」が出された。


2、前島密(来輔)の東京遷都論が大久保に届けられた〉


彼の遷都論の特長は「蝦夷地全体を領土化して開拓する、このためにも日本の中心にある江戸に遷都すべきである」「江戸には大名の藩邸があり新しく政府の建物や学校を建設する必要がない」「大坂は都市として存続できるが江戸はこのままでは衰微していくから遷都が必要である」と言うものである。また「天皇が江戸に行幸して京都と同じように政治を見るべきである」と言う意見が、江藤新平、大木喬任から出された。

 天皇が京都に還幸して、4月21日政府は新しい官制、太政官が設置された。翌日には「万機親裁の布告」が出された。軍事・政治一切を天皇が自らが決定すると言うことである。


〈江戸を東京都と定めた詔

明治元年7月18日、江戸を東京とする詔が発せられた。つまり東京を東の都とし、京都を西の都にすると言うことである。天皇が両都を言ったり来たりして政治を見るということで、両都並立(東西二都論)である。東京に都を移すと言うことではない。一度は東京に行かねばならない、つまり、東幸が行わねばならない環境が出来たのである。


東京奠都ノ詔(明治元年7月18日)
  朕今万機ヲ親裁シ億兆ヲ綏撫ス江戸ハ東国第一ノ大鎮四方輻湊ノ地宜シク親臨以テ其政ヲ視ルヘシ因テ自今江戸ヲ称シテ東京トセン是朕ノ海内一家東西同視スル所以ナリ衆庶此意ヲ体セヨ


 東幸の目的として、大久保達政府首脳は「皇旗」と「賞罰」を人民に示すことであると考えた。天皇は武力を持って京都から来るのではなく、「慈しむ親政のシンボル」としての印象を与えるべきである。このことは、大久保達が考えた以上に成功したのではない。


〈東幸に反対する京都の公家達……〉

8月4日、東幸の趣旨を公表する。当然、京都では公家を始め庶民に至るまで反対の大合唱であった。一度東京に行かれてしまえば都が移るという危惧があったのである。

 一方、 江戸は武士の町である、地方の藩から出てきた武士が江戸藩に住み、それらの武士を相手にする商売が大半を占めていた。江戸幕府の消滅により地方武士は故郷に帰り一気に人口が減り、武士相手の商売も駄目になり、江戸庶民の不安は高まっていった。江戸100万の人口と言うが、徐々に減り半分近くまでになってしまった。1日でも早く東幸して江戸の民心の安定をもとめる東京の官軍政府は、京都公家の説得と期日を決定をするため、大久保が京都に行くことになった。8月13日に京都に着いた大久保は奔走して、東幸の期日を9月20日と決定した。


〈財政的に逼迫していた新政府〉

しかし、問題は東幸の費用である、新政府に金はなかった、江戸城開城で金庫に金があると期待したが空っぽだった。必要な金額80万両にたいして30万両しかなかったのである。そのため、御東幸沿道の諸藩に太政官礼を貸与することを発表する。同時に大阪京都の富豪を説得、正貨をもって太政官礼と交換せしめた。また、彼らを会計官付御用達として命じ、御東幸の会計を請け負わしめた。このことにより政府の財政基盤は強化され、太政官礼の流通の一大転機となった。


 しかし弊害もある、金を借りたため、後に政府の産業資産を彼らに安い金額で払い下げることになった。これが財閥の萌芽である。太平洋戦争の終了後に財閥は解体させられた。

参考図書
 『江戸が東京になった日 明治2年の東京遷都』佐々木克著 講談社選書メチエ(株)講談社発行2001年
 『都市紀要1 江戸から東京への展開 東京奠都の経済史的意義』編集・発行 東京都 昭和28年
 『大坂が首都でありえた日 遷都をめぐる明治維新史』若一光司著 (株)三五館 1996年
 『東京都の誕生』歴史文化ライブラリー135 藤野敦著 吉川弘文館 2002年発行
 『開化の東京を探検する 江戸探検4』監修・東京都江戸東京博物館  2003年発行

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