江戸中期から江戸土産「麦わら細工」、北斉が関与した麦藁細工

《葛飾北斎が描く、麦わら細工浮世絵》
2014.02.28更新

『文政3年(1820)、同地の細工職である山本一家がつくったのが、先にあげた諸葛孔明の麦藁細工である。神田の町名主・斉藤月岑が記録した『武功年表』によれば、この細工は浮世絵師・葛飾北斎の下絵をもとにしたもので、実際、北斉が描く華麗な錦絵四枚続が確認されている。それによれば、長さ七丈三尺(約22メートル)の大青竜刀もつくられており、柄のなかに、劉備、関羽、張飛ほか多数の三國志の英雄をちりばめるという凝った造りである。やはり北斉ならではの考案というべきで、芸術家であるとともに職人でもあった当時の浮世絵師が、細工見世物に直接関与した例として興味深い。』(『江戸の見世物』川添 裕著 岩波新書2000年刊)

北斎の浮世絵
「麦藁細工」絵・葛飾為一(葛飾北斎)文政3年(1820)
北斉の下画と校合である。校合とは、北斉の下絵を彫り、墨版だけで刷り、絵師・版元のチェックを受ける版下である。当然直しが有り、実際に出された絵とは違う。、同麦藁細工の浮世絵が出された。下記4枚揃いの浮世絵である。東京国立博物館蔵 
「麦藁細工」絵・葛飾為一(葛飾北斎)文政3年(1820)横の絵と横二枚の揃いものらしい。


麦藁細工ではなく、籠細工のような気がするが、右の下絵には「大森」の文字も見え、麦藁細工のテーマであろう。作られた物の浮世絵ではない。
私見であるが、 江戸時代中期以後、浅草奥山を頂点とした両国河岸で、見世物小屋が盛んであった。それらを見た浅黄者(田舎から参勤交代でやって来た武士)が参勤交代のため帰るときに、見世物を見た思い出に麦藁細工を買い求めたのではないだろうか。

北斎の浮世絵

下絵とかなり変化している。一枚絵にした時に売れるように構成し直したようである。一枚絵にした時のポイントとするため、絵の強弱を変えている。人物は大きく、籠の鶴は大きくしている。

 

「麦藁細工見世物」絵・葛飾為一(葛飾北斎)文政3年(1820)3月、版元・遠州屋又兵衛 大判4枚つづき。


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「雙筆五十三次川崎 六郷川舟渡し」広重、豊国(三代)安政元年(1854)
箱物を作る婦人、対岸は六郷の渡しの川崎側風景。

上の写真、「江戸自慢三十六興 大師河原大森細工」 広重(二代)豊国(三代)  元治元年(1864)
張り細工をする婦人、背景は大師の渡し、川崎大師にいく渡しで
あろう

上の錦絵、「東京横浜名所一覧図会 大森麦わら細工」広重(三代)明治3年(1870)
明治初期の麦わら細工店の店先、明治に発明された人力車を巧みに絵の中に取り入れている。

『麦わらで編んだ細工物』
 江戸中期頃から作られた麦わらを編んで作る細工もの、当時は「海苔」「和中散」と共に東海道大森の名産として有名な土産物であった。始まりには色々な説があるが、大田区関連では、日蓮宗の寺、大林寺の住職が農民の農閑期の手助けとして教えたと伝承があります。

〈麦わら細工を良く知るホームぺージ〉
  大森麦わら細工の会……江戸麦わら細工研究会のHP


麦わら細工は錦絵だけでなく、江戸名所図会にも紹介されています。
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