船橋はどう造られたか、知恵が生んだ仮橋の全て


「起の渡し」
 
 船橋は、将軍の上洛時や朝鮮通信使の通行時に架けられた。多摩川の船橋が100間ほどなのに、この船橋は475間(860メートル)と5倍近くの長さである。徳川尾張藩の支配下にあるため、破損や事故は許されず、建設にかり出された農民達の大変な苦労が推察される。
 太い白口藤縄で両側を結び、鉄鎖の碇を沈め、長さ2.7メートル、幅30センチ、厚さ6センチほどの木をびっしり敷き詰め固定した。かなり丈夫な船橋である。使用された舟は大船44隻、小舟130隻、舟に敷く板は3036枚になった。東幸の通過は9月26日である。

のイラストは、美濃路の木曽川に掛けられた船橋である。
〈参考〉市民文化講座 平成12年に行われた「佐屋街道と美濃街道」(講演 日下英之先生)の講演で使用されたイラストを参考に書き起こしたものです


江戸時代の船橋、加賀藩前田藩の参勤交代
 金沢から江戸への参勤交代は三つのルートがあった。一つは北国下街道・中山道から江戸へ、二つ目は北国上街道・中山道から江戸へ、北国上街道・美濃路・東海道から江戸へのルートである。短い行程は、最初の北国下街道・中山道であるが、街道には川幅5メートルの川が84カ所有り、その40パーセントは橋が無かった。渡るには歩く、渡し船に乗る、船橋を造り渡るであったが、自国の領内ならば船橋を造ることも出来たが、他国では不可能であった。また費用が高く敬遠されたようだ。全国の参勤交代ルートでも同じような問題を抱えていた。参勤交代は費用が掛かり、大名の財政を圧迫した。(参照『大名行列の秘密』安藤優一郎著 NHK出版2010年)


神通川の船橋
  富山県に流れる神通川は、川上岳を水源とする一級河川である。富山平野を蛇行して富山湾に注ぐ、蛇行部分で古来より洪水が起き、明治になり河川改修を行った。
  写真は富山の七軒町と船頭町間に架けられていた船橋である、船を64隻繋ぎ、長さ4丁余り、幅2尺の板を渡した。明治16年(1883)に廃止され木橋となった、たびたびの水害のため橋は架けられず、船橋になったのであろう。 『明治の日本宮内庁書陵部所蔵写真』武部敏夫・中村一紀編 吉川弘文館 2000年刊
 長良川 明七橋(明治7年頃)


朝鮮通信使の旅

 
 朝鮮通信使は、漢城から江戸まで約2000キロの行程を旅した。幕府にとって大事な外交イベントであったので、将軍家と同じような扱いであった。徳川時代には全部で12回の朝鮮通信使が江戸に旅をした。川には渡し船でなく船橋が架けられた。特に朝鮮通信使達には印象が強く残り、その『使行録』に船橋の堅牢さと勇壮さを書いている。
 この船橋を渡る風景は一代大イベントで、近隣から多くの人々が見物に集まり、道の両側は埋め尽くされ、舟まで出て見物したらしい。しかし、この朝鮮通信使でさえ、最後の「六郷の渡し」は船橋が架けられず、幕府の川御座船による渡河であった。この時、どのような船であったか分からないが、日本財団の電子図書館で見ることが出来る。

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