明治時代になると、渡船は水上交通へと変貌した
2014.10.22更新
東京両国通運会社 川蒸気往復繁栄真景図 重清 東京都公文書館蔵 (36.6×24.7センチ)三枚構成
右の建物は両国橋付近に立つ東京両国通運会社、会社の旗も翻っている。

 明治期の渡し場風景
 
  明治から大正にかけて東京の川には、約68の「渡し場」があった。明治政府が明治4年より橋梁・渡船の整備を奨励し、私設の橋や渡船に免税の措置を取ったため盛んになった。道路はほとんど変化せず江戸時代のままだった。また、武士の無賃も廃止された。渡し賃を取ることも認められ、1人あたり、一厘から五厘〜七厘ぐらいであった。江戸時代よりも明治の方が渡しは盛んになったのである。特に下町の人口が増えるに従い、隅田川や大川に渡しが増えたのである。(中央区にも渡しの資料があります)

 一銭蒸気の出現から川蒸気船へ 推移
 
  一銭蒸気は明治・大正期の都市風景には欠かせないものである。ではいつから「一銭蒸気」が使われたのかはっきりした定説はない。 昭和54年の『国史大辞典』によれば、「明治18年浅草〜両国館に始めて川蒸気が就航し、その後八丁堀、中之島、千住大橋へと区間を延長した」とある。
 
  2番目の説は、墨田川汽船会社の古川孝七氏である。『隅田川に火船を上下せしものの嚆矢たり』と『京浜実業家名鑑』(京浜実業新報社 明治40年)に紹介されている。

 3番目は、明治18年7月2日、隅田川が大洪水となり吾妻橋が流失した、足を確保するため臨時に使用されたのが石川島造船所の『第四痛快丸』 だと言う。これが起源だと『本元昌造・平野富二詳伝』(昭和8年)にある。

 最後の4番目説は明治の実業家・緒明菊五郎が永代と両国の間に使用したのが起源だという。一銭蒸気は好評で続々と新航路が開かれた。一銭蒸気は焼き玉エンジンだった、特有のぽんぽんと音がして『ぽんぽん船』と親しまれた。隅田川を航行する千住吾妻汽船の一銭蒸気は「上流に向かう船は緑色に塗られ、青蒸気と呼ばれた」「下流に向かう船は白く塗られ、白蒸気と呼ばれた」のである。

 多摩川では渡船に蒸気船を使用しなかった。浅い多摩川での運行は無理だったのか、渡しの往復では採算が合わなかったのかもしれない。下町の渡しは蒸気船になった。今までの手こぎの渡し船とちがい蒸気船は、川の増水などでも運航できたため徐々に増えていった。この延長線上の錦絵にあるような『通運丸』が出現したのである。


 外輪船『通運丸』にみる水上交通の発達
 
  明治10年(1877)5月、内国通運会社は深川扇橋から栃木県の生井村を結ぶ航路を開いた。この時使われたのが『通運丸』である。翌年には茨城の古河への航路も出来た。発着場所は日本橋蛎殻町である。
  明治10年頃には水運会社は19社で、運用している蒸気船は67艘ほどである。内国通運会社だけでも、第一通運丸から第九通運丸の9隻が運行していた。明治19年(1886)まで蒸気船は増加して143隻を数えるほどになった。

 明治15年(1882)に内国通運株式会社と銚子汽船会社が一緒になり、両国通運株式会社となった。両国から新川を経て江戸川を上り、銚子に行く航路ができ通運丸が運行された。この航路は東京から浦安や行徳に向かう足として利用された。
 大正8年(1919)には深川から浦安に定期船が運航された。土地の人は通船といって親しんだ。通運丸は石川島造船所で造られた外輪式蒸汽船で、明治10年(1877)から42隻造られた。きっすいが浅く内陸河川に適していた。利根川の通運丸は、大正8年(1918)に当時の運行会社が撤退した後、別地で稼働していたが昭和初期頃に廃船となった。

それらの蒸気船や渡しも橋梁ができると徐々に姿を消していった。乗り合いバスの出現は、浦安などの通勤客を奪っていった。多摩川で最後に廃止された渡しは、『管の渡し』で昭和48年(1973)のことである。 東京の渡しの最後は『佃の渡し』で、昭和39年(1964)のことであった。この佃島の渡船は、『明治村の入鹿池』に運ばれ観光船となったという。(参考・『東京から江戸へ』石母田俊著 桃源社刊 昭和43年刊)

 しかし現在の明治村に船はない、いつなくなったか分からない。一銭蒸気に始まった水上交通は、形を変えて観光用の水上バスとして現代に蘇った。


石川島播磨重工の企業博物館で通運丸の模型を見ることが出来ます。
石川島資料館の館内案内 Aゾーンにあります。
http://www.ihi.co.jp/ihi/splaza/splaza.html  

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