「船渡し」は水上の橋であり、行楽など憩いの架け橋であった


『六郷川蒸気車往返之図』歌川広重(三代) 明治4年(1871) 大田区立郷土博物館蔵
明治初期 多摩川の渡し風景、筏流しや明治に発明された人力車などが見える。三枚揃い

 
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江戸期の渡し場、関所から行楽へ………


 徳川家康は天下を取るまえ、秀吉から関東へ移された頃から、新しい江戸の青写真を描いていた。その中のひとつには「新東海道」を造ることがあった。多摩川の六郷(八幡塚村)に慶長5年(1600)橋が架けられたが、洪水などで何度も橋が落ちた。慶長6年(1601)には、彦坂元正らに東海道巡視を命じ将来に備えたという。1688年に最後の橋が落ちると橋を諦めた。
  明治7年(1874)鈴木左内が橋を架けるまでの180年間、多摩川に橋はなく渡船による渡しであった。このため「渡し場」ではなく「渡船場」とも言われる。

 江戸時代、多摩川にかかる橋はなかった。橋の代わりの『渡し』は幕府により管理された、江戸に入る不審者の進入を防ぐためであった。しかし、太平の世になると江戸庶民の行楽が盛んになり、多摩川下流域の大田区は信仰を兼ねた行楽地や寺社参拝のため、江戸から日帰りや一泊程度の行楽地になった。例えば「川崎の平間寺(川崎大師)に渡る」「反対に川崎の庶民が新田神社に参拝する」などに利用された。また、飛び地や、対岸の田畑など農耕作業をするためにも「渡し」(作業渡しという)は利用された。


多摩川に渡しはいくつあったのか………大田区内の渡し


 大田区には主な渡しとして、『丸子の渡し』・『平間の渡し』・矢口渡』・『小向の渡し』・

六郷の渡し』・『大師の渡し』・『羽田(六左右衛門)の渡し』の7箇所あった。

おもに物流や往還に利用される中原街道の『丸子の渡し』と東海道の『六郷の渡し』を除けば、江戸庶民の行楽の利用が多かったと推測する。しかし・小向の渡しは大田区側では確認できない。河崎側の位置情報である。

 『平間の渡し』や『矢口渡』は古川薬師(安養寺)、鵜の木光明寺、新田神社、日蓮宗大本山 池上本門寺、川崎の平間寺(川崎大師)などの参拝に利用された。これらの寺社は徳川家とのつながりも深く、武家や江戸庶民で賑わっていた。それは、歌川広重の浮世絵や『江戸名所図絵』などにも描かれている事からもわかる。
 
また行楽の道しるべとなる道標(道しるべ)も数多く残されている。『六郷の渡し』や『小向いの渡し』なども東海道の往還以外にも平間寺(川崎大師)への参拝に利用された。
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注)小向の渡しは、大田区側に渡し跡がなく不明である。

       ●渡しではなく、何故、橋を架けなかったのか………


 軍事的理由が大半ではない、江戸幕府開府の頃は橋があり、何度か落橋と架設修復を繰り返している。その修理に莫大な費用が掛かるため、幕府は橋を架けることを断念した。今のように堤防がなく、毎年のように洪水の被害があり、川床が広く変化するため橋が架けにくかったこともある。多摩川は、水の流れている部分は少なく、川床が広いので渡船の方が簡単であったことが一番の理由かも知れない。『平間の渡し』や『矢口の渡』など時代により渡し場所が大きく移動している。

多摩川水運の主役、筏流し
 もう一つ大きな理由は、筏の川流しであった。上流の秩父青梅あたりから、伐採した木材を江戸に運ぶために川を利用した。筏を作り筏師が数日をかけ下ってきたのである。下流の八幡塚村には三軒の『筏宿』があった。羽田漁師村にも二件の宿があった。此処に集積された材木は船で江戸に運ばれた。「火事は江戸の花」と言われるように火事のあとに材木の需要が増えた、特に明暦3年(1657)の『振り袖火事』以降盛んになったという。

 筏流しは、秋から翌年の5月頃まで行われた。台風の季節には濁流に大量の木材も流され、橋の橋脚にぶつかるのである。台風でなくても木材が橋脚にぶつかる事故は絶えなかった、明治に架設された『左内橋』も毎年の修理で費用が掛かり、『金喰い橋』と揶揄され4年間で廃橋となった。

 

参考・『近代東京の渡船と一銭蒸気』都市紀要35 東京都発行 平成3年(1991)
『多摩川流域の渡河点』内田和子文 多摩のあゆみ28号 昭和57年(1982)

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