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〈東幸に反対する京都の公家達……〉 ●8月4日、東幸の趣旨を公表する。当然、京都では公家を始め庶民に至るまで反対の大合唱であった。一度東京に行かれてしまえば都が移るという危惧があったのである。 一方、 江戸は武士の町である、地方の藩から出てきた武士が江戸藩に住み、それらの武士を相手にする商売が大半を占めていた。江戸幕府の消滅により地方武士は故郷に帰り一気に人口が減り、武士相手の商売も駄目になり、江戸庶民の不安は高まっていった。江戸100万の人口と言うが、徐々に減り半分近くまでになってしまった。1日でも早く東幸して江戸の民心の安定をもとめる東京の官軍政府は、京都公家の説得と期日を決定をするため、大久保が京都に行くことになった。8月13日に京都に着いた大久保は奔走して、東幸の期日を9月20日と決定した。 〈財政的に逼迫していた新政府〉 ●しかし、問題は東幸の費用である、新政府に金はなかった、江戸城開城で金庫に金があると期待したが空っぽだった。必要な金額80万両にたいして30万両しかなかったのである。そのため、御東幸沿道の諸藩に太政官礼を貸与することを発表する。同時に大阪京都の富豪を説得、正貨をもって太政官礼と交換せしめた。また、彼らを会計官付御用達として命じ、御東幸の会計を請け負わしめた。このことにより政府の財政基盤は強化され、太政官礼の流通の一大転機となった。 しかし弊害もある、金を借りたため、後に政府の産業資産を彼らに安い金額で払い下げることになった。これが財閥の萌芽である。太平洋戦争の終了後に財閥は解体させられた。 ● 参考図書 『江戸が東京になった日 明治2年の東京遷都』佐々木克著 講談社選書メチエ(株)講談社発行2001年 『都市紀要1 江戸から東京への展開 東京奠都の経済史的意義』編集・発行 東京都 昭和28年 『大坂が首都でありえた日 遷都をめぐる明治維新史』若一光司著 (株)三五館 1996年 『東京都の誕生』歴史文化ライブラリー135 藤野敦著 吉川弘文館 2002年発行 『開化の東京を探検する 江戸探検4』監修・東京都江戸東京博物館 2003年発行 『東京人 2号』(財)東京都歴史文化財団 1998年発行 |