●「駒くらべ盤上太平記」絵・一勇斉国芳(歌川国芳) 天保14年 版元・具足屋嘉兵衛 国立国会図書館デジタル化資料所蔵
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●天保14年(1843)7月、錦絵『将棋合戦』が発禁処分となり、残部没収となる。この錦絵は、名主への届けもなく、制作を武家の内職で行われたことが、幕府の逆鱗に触れたらしい。其のあおりを受け、国芳の浮世絵も、寓意や隠された意味があると巷で噂され、危なく発禁になりそうであった。国芳の浮世絵は、改印も受け正式な板行であったため、幕府も発禁に踏み切れなかったようだ。その後も販売された。『藤岡屋日記』2巻参照 |
吉原の仮営業を知らせる広報(吉原の広告)を規制の目を欺くため雀に仮託 |
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 ●「里すずめねぐらの仮宿」絵・一勇斉国芳(歌川国芳)名主印・渡邊庄右衛門 弘化3年(1846)5月 版元・川正 川口屋正蔵 国立国会図書館デジタル化資料 |
●弘化2年(1845)12月暮れのこと、官許の遊里吉原は炎上消失した、幕府に仮宅地を申請し、許可されたのは28カ所の土地と、250日の営業日数であった。場所は浅草寺と隅田川、山谷堀に囲まれた三角地帯である。すぐに建物を再建したが、天保の改革時であり、吉原は大々的に宣伝できない。そこで誰が考えたのか国芳に考えさせようとなったらしい。国芳は遊女や客を雀に仮託、上記のような三枚揃いの浮世絵になった。ぬかりなく名主印渡邊庄右衛門の印をもらい板行した。
ところが、やり過ぎ国芳は、名主印を雀の羽織の中に押した事が問題になり(右写真)、時の北町奉行遠山左衛門景元(遠山金四郎)が渡邊庄右衛門を罷免する事態になった。この名主印は、名主が病気だったため、息子がふざけて着物の袂に押した。これが問題になり、名主は罷免されたと言われる説もある。しかし吉原の焼け太りと言われるように、仮宅は大いに繁盛した。
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『浮世又平名画奇特』は、国芳のアイデアが輝る浮世絵である |
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●「浮世又平名画奇特」絵・一勇斉国芳(歌川国芳)名主印・村松源六・福島義右衛門 嘉永6年(1853)6月、彫り・横川竹二郎 版元・越平 越村屋平助、役者絵・市川小団次 国立国会図書館デジタル化資料
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●題材は、近松門左衛門の「傾城反魂香・又平住家の場」宝永5年(1708)を絵にしたものです。又平は、逃げてきた姫を自分の住み家に匿います。そこに追っ手がやって来ますが、あら不思議、大津絵の中の人物が現れ追っ払ってくれます。国芳はさすがです、見事、夢の中の絵にしました。この浮世画は、一日に数千枚売れたと藤岡屋日記は書いています。どこかに風刺があるのではないかと噂が噂を生んだのでしょう。
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『流行逢都絵希代稀物』は、『浮世又平名画奇特』の前駆をなす浮世絵である |
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●「流行逢都絵希代稀物」絵・一勇斉国芳(歌川国芳)名主印・濱彌兵衛・衣笠房太郎 天保14年から弘化4年(1843〜1847)版元・蔦屋重三郎 彫り・多吉 国立国会図書館デジタル化資料
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●『流行逢都絵希代稀物』は、『浮世又平名画奇特』と同じ頃の発売であるが、おそらくこの絵が早いと考える。悳 俊彦氏は、嘉永元年(1948)としている。(「歌川国芳」悳 俊彦著 東京美術刊 2008年)、氏は「絵師自身は国芳である」。絵の内容もほぼ同じであり、大津絵の人物達が現れる表現だが、『浮世又平名画奇特』ほうがインパクトがある。三枚揃いが売れなかったので、版元等も全て別にして2枚揃いで出したのではないかと考える。たぶん、絵中の作者の顔を隠したことが売れなかった原因であろう。
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『きたいなめい医 難病療治』即発禁、絶版処分となった |
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 ●「きたいなめい医 難病領治」絵・一勇斉国芳戯画(歌川国芳)名主印・濱彌兵衛・馬込勘解由 弘化4年から嘉永5年(1847〜1852)版元・遠州屋彦兵衛 国立国会図書館デジタル化資料 |
●嘉永3年(1850)に版行された、歌川国芳の戯画である。タイトルの「きたいなめい医」とは、江戸時代には珍しかった女医を示す、中央に座っている女性が、女医やぶくすし竹斉娘の「こがらし」である。黒羽織をしている人物が弟子である。『絵中に幕府の高官を描き、揶揄している』と言われ大評判になったと言われる。弟子の羽織の家紋が、幕府の老中達を表している。また、大奥姉小路局の権勢を揶揄している。人気のため絶版後も多くの異版が出たといわれる。
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