華やかな江戸小袖を創り上げた雁金屋と東福院和子


東福院和子の依頼で小袖を創り「京の都(御所)」に江戸小袖を広めたのは雁金屋である。
雁金屋が店を営んだ場所は、京都の中立売小川付近とも,中立売智恵光院付近ともいうが不明である。近江の浅井長政の家来筋であった2代目・道柏が,長政の3人娘である淀君,京極高次夫人,徳川秀忠夫人などに引き立てられ高級呉服商になったらしい。

『東福院像』光雲寺
江戸時代になると3代目・宗柏の時,秀忠の娘・和子が後水尾天皇に入内する、東福院和子である、その時から皇室にも出入りし,繁栄の道を辿った。宗柏は,将軍家と東福門院和子を最大の顧客に雁金屋を発展させる一方,本阿弥光悦の文化村にも参加,豊かな文化的知識と教養を身に付けた文化人として頭角を現す。4代目・宗謙も,彼の3人の息子,藤三郎,市之丞(光琳),権平(乾山)も能楽や絵画に親しんだ。

『毎年、東福院には、幕府から多額の金銭援助があったことを確認することができる。寛永十五年の「大内日記」には、毎年金二千両が遣わされていたと記載されており、(中略)女院御所として、毎年江戸から金子千両ずつが遣わされ、そのほかに銀三百貫目、御賄方入用の米千六百石、「被召仕衆御切米」三千七百石と記載されている。呉服屋雁金屋の主である尾形家は、近江国小谷城主であった浅井長政の家来筋といわれ、その縁で長政の娘である淀殿(茶々)・常高院(初)・崇源院(お江与)の三姉妹から贔屓にされた。お江与の娘である東福院もまた、雁金屋を贔屓にした』『和子が自分の着用分の呉服と、自分に仕える女官たちの小袖(こそで)をまとめて注文したことがわかる。』(『徳川和子』久保貴子著 日本歴史学会編 吉川弘文館 2008年刊)

 最初こそ軋轢はあったようだが、和子は新しい風を宮中に吹き込んだ。宮中に小袖を着用する習慣を持ち込んだのも和子であり、尾形光琳・乾山兄弟の雁金屋に女官達全ての小袖を発注した(寛文小袖と言われる)。


左写真は『小袖 白綾地秋草模様(しろじあきくさもよう)』重要文化財 一領 身丈147.2×桁165.1p 東京国立博物館所蔵
 別名「冬木小袖」と言われ、江戸の材木商「冬木家」の妻女のために作られたと言われている。宝永元年(1709)尾形光琳が江戸に逗留したとき、白地の絹織物に直接秋草を描いた「描絵(かきえ)」ものである。同じものは二つとない小袖は、裕福な江戸豪商に流行ったそうである。江戸で生まれた小袖が京都の意匠をまとい優雅に生まれ変わった。江戸の大奥や裕福な商人に熱烈に受け入れられた。京の雁金屋は江戸でも大きな商売になった、後に華やかな元禄時代が生まれる。

 その御遣い小袖が四十五領とあるように、東福院は若い頃から衣服を下賜することが多かったようである。そこから、下賜された小袖が町方にも広がり、そのことによって女院御所から小袖染色の流行が生まれたと推測される。(『本朝世事談綺』菊岡沾凉 江戸中期)

京の呉服商雁金屋に残された文章には、当時、経済力に乏しかった天皇家に生家の財力を活用した。もとから雁金屋は浅井長政の家来筋と言われ、三姉妹から贔屓にされた。彼女らが嫁いだ婚家からも注文を受け、徳川家諸藩・松平家や江戸城大奥からも莫大な注文を受けた。しかし、東福院和子の没後、雁金屋も売り上げが減少し、また大名貸の失敗により没落していった。

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