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 日光東照宮の寛永造替と17ヶ月で完成させた狩野家の役割


 日光東照宮作事に参加、寛永造替への関与
 
  狩野家が日光東照宮に参加した事を直接示す資料は少ない。幕府の作事(建設)では、絵師狩野家の絵師が下絵を描き、それに基づいて職人彫り師が彫ったようだ、しかし文献資料での確認は、頭領など一部の記載しかなく詳細を知ることは難しい。

資料ー1・『日光東照宮の彫り物と彫物大工』伊東龍一、日本美術全集 第16巻「桂離宮と東照宮」江戸の建設1・彫刻 大河直躬・辻惟雄・西和夫・佐藤昭夫編 講談社発行 1991年
 『工事には探幽をはじめとする狩野派の絵師が参加しており、絵師が意匠に関わっていたことも考えられる。』、『陽明門の羽目は墨書によって、狩野養川院惟信の下絵に基づいて彫ったことが明らかである。』と記載がある。

資料ー2・『日本木彫史』日本文化叢書3巻 坂井犀水著 芳賀 登監修 藤森書店発行 昭和4年(1929)
『上神庫の破風下の大瓶束の左右にある、探幽下絵と伝ふる象の高肉彫は注目を惹く』

資料ー3・日本美術20巻『日光東照宮』 大河直躬著 平凡社 1979年刊 
解説『日光東照宮―華やかな意匠と江戸の建築』伊東龍一、 『甲良の配下には、多くの平大工・木挽・彫物大工が従っていた。また、その他にも絵師の狩野探幽・鋳物師の椎名伊予など、当代最高の諸職人がかかわっていた。』

資料ー4・原色日本の美術16巻『神社と霊廟』稲垣栄三著 小学館刊 昭和43年(1968)
『甲良氏は建仁寺流を名のり、平内氏とならんで江戸時代を通じて幕府作事方大棟梁の地位にあった。また建築の彩色や壁画・天井画は幕府絵所である狩野探幽の一門そのほかの人々である。』


《日光東照宮の寛永造替の工事期間…驚くべき短期間であった》
 
  日光東照宮の工事期間は、昔の説では寛永11年11月頃(1634)から寛永13年4月頃(1700)には主要な建物が完成して、寛永19年頃(1642)まで続いたと考えられていた。しかし、今日の定説では、1年5ヶ月(17ヶ月)で完成したと考えられている。これだけの短期間に完成させるには、職人の技能も高かったに違いないが、計画された分業が必要であった。そのために彫物の下絵が重要になり、彫りや彩色に探幽を始めとする狩野派一門が大きな力を発揮したと考えられる。つまり下絵による彫り師の作業が同時進行出来たことが大きいと考える。

 幕府作事方の記録『日光山東照宮大権現様御造営御目録』(東照宮御造営目録)には大棟梁甲良豊後守宗広の名前が記載のすべてに近く、その他、彫り師・絵師などの個人名記載がない、そのために関与の実態は明らかでない。しかし、戦国時代に城郭の襖絵など短期間に完成させた狩野派は、その力を日光東照宮寛永造替でも充分に力を発揮したに違いない。これ以後、御用絵師狩野家の仕事は、江戸城などの襖絵や装飾に力を注ぎ、将軍の権威を高める事にあった。狩野派目次




写真 雛形本

日光東照宮の陽明門の表側と裏側である。数多くの彫刻があり、その彫刻や絵に関する諸々を狩野派が総力を上げてバックアップした。彫刻の下絵を創り、それを木に貼り付け彫り師が彫った。数多くの下絵を職人に配り一斉に作業を開始した。

江戸時代には上記の本に見られるように『雛形本(ひながたほん)』と言われる建築の細部意匠を表した本があった。江戸時代にはあらゆる分野に雛形本が存在した。

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