ー大田区で一番地形が変化した馬込地区…第二国道の難工事ー

《昭和4年(1929)から昭和7年頃の馬込地区を見る、古い村名から探る》
地図

地図は「東京市郡合併記念」東調布市編 
昭和7年(1932)刊、添付された地図

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新旧の町名について……

 
塚越、大谷、中丸は馬込町西二丁目。大久保、和田は馬込町西三丁目、地図左上の白地部分の二本木、入原、宮下は馬込町西四丁目。将監谷、上臺(うえだい)、根古屋は馬込町西一丁目。北久保、馬込小学校、光雲寺、八幡神社あたりは馬込町東三丁目である。この時には現在と同じく消防署と信用金庫が馬込小学校に並んで記載されている。


道路について……
 イラスト中央の直線は、昭和11年(1936)10月に工事が開始された第二京浜国道の位置を示す、昭和4年(1929)の時点にはないが、現在の位置関係の確認に便利なため描き込んだ。

 右赤色の道路は、臼田坂からの嶺道(別名、田無街道)である。下の裾野に沿った赤色の道路は、本門寺総門を起点とする目黒道(第二池上道)である。


昔の農業、摘み田(ツミダ)
 
細い薄色の道は、昔からの村道である、谷(ヤト)部分は「摘み田」(ツミタまたはツミダという)と畑が混在する。摘み田とは古来から伝えられた稲作法で、田へ直接種籾(たねもみ)を蒔く方法である。私たちは、苗代を田に移し替える稲作法を「植え田」という。明るい緑部分は新しく開発された土地であろう、その証拠に耕地整理による道路がまっすぐ造られている。この部分は昔は足を取られる「摘み田」であり、水田としては難しい土地なので、住宅地への開発がおこなわれた。畑では『馬込大太三寸人参』『馬込半白キュウリ』がつくられていた。将監谷の下部分、桐ヶ谷の山裾は「梅田」で、現在の都営地下鉄操車場と「梅田小学校」がある、古い地図の地名は「埋田」と書かれている。
(参照・太田区史)

馬込の川、内川
について……内川を歩く
 
 将監谷の水色部分は湧き水か、別からの水源かは覚えていないが、ここに内川が流れていた(現在の東急ストアあたり)。今は埋め立てられ桜並木のレンガ歩道となっている。ここに洗い場があり、その脇には「はんぺん」を造るような魚介加工工場があった、近くに行くとアンモニアの臭いがした。現在はマンションが建っている。この道の途中に郷土博物館がある。

 現在、内川はJR東海道ガード(大森西4-1)から暗渠を出て、ここ(大森東1ー7)から東京湾に流れている、わずか1.5キロの二級河川である。江戸時代の古い地図では、水源は北馬込(夫婦坂)あたりから発する大きな湧水・池のようで、そこから流れて市野倉あたりで呑川に合流していたらしい。東京湾に注ぐ所には、平成19年「ふるさと浜辺公園」が出来て綺麗な海岸になった。そこに大田区の海苔の博物館がある




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地図は昭和4年頃の馬込をイラスト化
 
  収録されていた元地図(左)は、タイトル名『昭和7年9月 新区内町界町名整理案図(荏原群)』(大田区立郷土博物館蔵)に収録されていたものである。白抜きは東京府の地名である。新住所(東京市)はイラストに描き込むと見づらいので、右文章にした。
昭和28年(1953)大田区史「土木概要図」
地図に光雲寺と記載されているが、この寺には「十一面観音立像」、俗に鎌作観音と呼ばれる像がある、寺は品川上大崎六軒茶屋にあったが廃寺となり長遠寺に合併された。何故、地図記載が光雲寺となっているか分からないが、修整せず地図に従った。

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