ー五重塔横にある木挽町狩野家の墓ー
狩野養信の墓(晴川院)と狩野養朴常信
 


狩野
晴川院養信(せいせんいん おさのぶ)について
 
  晴川院養信(1796〜1846)は、木挽町狩野家の9代目であり、文政11年(1828)に家督を相続する。天保期(1830年より)の江戸城再建時に活躍した障壁画制作の中心人物である。彼は障屏画制作のため古画の写本、下絵、草稿を残したり「公用日記」という仕事の記録を残したことで知られる。天保4年(1833) に法印に叙せられた。平成20年のNHK大河ドラマ「篤姫」における江戸城障屏画は狩野養信の記録を参照したと思われる。また、彼は狩野探幽以来の俊英と言われて期待をになった狩野派最後の絵師である。


この木挽町狩野家墓域には、狩野養信の墓と狩野常信(狩野養朴常信 木挽町狩野家2代)と狩野周信(狩野如川周信木挽町狩野家3代)の墓もある。全て亀趺(きふ)形碑形の墓である、右の写真のようにシンプルな亀の形である。
 
  2003〜5年にかけて五重塔解体修理の時に、周辺の墓も調査が行われた。調査は、立正大学の坂詰秀一教授を団長に、本門寺と大田区教育委員会、立正大学考古学研究室により実施された。調査報告は本門寺霊宝殿受付にて購入可能となっている。
(参考・坂詰秀一編 2004 『池上本門寺奥絵師狩野家墓所の調査-狩野養朴常信墓所・狩野如川周信墓所・狩野晴川院養信墓所-』 池上本門寺。)


狩野晴川院養信の仕事(公用日記)


写真 晴川院養信墓

晴川院養信の墓
下写真、五重塔正面左側に木挽町狩野家の墓域がある。狩野晴川院養信の墓、墓の後ろ側に五重塔がある。もとの墓の位置は五重塔裏側であったが調査の終了後今の位置に移築された

 
晴川院養信墓写真
写真

養朴常信(養朴)と狩野周信(如川)の墓
狩野養朴常信墓
養朴常信(つねのぶ)の墓

上の写真、右側は養朴常信の墓で、狩野尚信の長男として京に生まれる、木挽町狩野家2代目である。狩野探幽の甥である養朴常信は、将軍吉宗の元に御用絵師を務め、宝永元年(1704)に法印の位を受けた。探幽以後、評価の高い絵師である。三段の基盤い亀趺墓が載る。高さ2.6メートル、出土品は、漆塗煙管箱、模造刀、経巻軸頭(法華経があったと思われる)などである。常信の仕事

左の小さめの墓は、常信の息子、木挽町狩野家三代目如川周信の墓である。高さは1.8メートルと小さめである。如川周信の墓からは副葬品として、黒漆筆箱、香箪笥、眼鏡、煙管、毛抜き、印籠、青銅製雷神文子箱など多数が出土した。

墓標として亀趺(きふ・亀形の台座)が使われることは珍しく、狩野家の墓はこの形が多い。徳川幕府の奥絵師であるという矜持が現れている。(参考図書は鍛治橋狩野家のページ)

狩野晴川院養信(せいせんいんおさのぶ 1796〜1846)戒名・晴川院殿會心斎法印養信日叡大居士 51才
狩野養朴常信(ようぼくつねのぶ 1936〜1713)戒名・常心院古川道雲日観大居士 78才
狩野如川
周信 (じょせんちかのぶ 1660〜1728)戒名・晃曜院法眼周信靆雲日治大居士
 68才

(注)文中の戒名は池上本門寺『池上本門寺の狩野家墓所』パンフレット の記載による。狩野家の菩提寺である「南の院」に残されている狩野家の位牌に書かれている戒名である。 (注)名前の前は画号(齋号)である

養朴常信と如川周信の墓は何故、他の狩野家墓所と離れているのか。

伝承によれば、常信には3人息子と2人の娘がいたが、娘の一人が門人と過ちを起こし、怒った常信が切り捨てて殺してしまったという。常信は我が子を殺めた事を恥て、不浄な身であるから狩野家の墓地から離れた所に葬るように遺言したと言う。(『池上本門寺・奥絵師狩野家墓所の調査』編者 坂詰秀一 発行・池上本門寺 2004年)

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