ーあまりの残存数の少なさから版行をやめたと言われたシリーズー
北斉幻の『千絵の海』10枚 

千絵の海シリーズは、つい最近までその残存数が極めて少ないために、数枚を出したとこで販売中止されたようである。または版下・校合摺りの段階で中止されたというのが、ほぼ定説であった。ところが2011年1月10日、テレビNHK総合放送にて「パリ国立図書館写本部」で画帳仕立ての『千絵の海10枚揃い』が発見された」。
浮世絵 千絵の海
「千絵の海 蚊鉢流(かばりながし)」絵・前北斉為一筆(葛飾北斎)版元・森屋治兵衛 天保4年(1833)頃、横中判(29.3×19.0センチ)錦絵、東京国立博物館蔵 拡大表示 
 
  毛針釣りであろう。虫を模した擬餌針で魚を釣る。今の石川県で行われた、その後、土佐国でも盛んに行われた。主に鮎を釣る漁法である
浮世絵 千絵の海


「千絵の海 待チ網」絵・前北斉為一筆(葛飾北斎)版元・森屋治兵衛 天保3〜4年(1833)頃、横中判(29.3×19.0センチ)錦絵、東京国立博物館蔵 拡大表示

  浅い瀬などの水中に網を張っておき、魚が入るのを待ちすくい取る漁法である。絵ではざるや網など色々使っている。特定の場所を描いたのでは無いようだ。

浮世絵 千絵の海


「千絵の海 絹川はちふせ」絵・前北斉為一筆(葛飾北斎)版元・森屋治兵衛 天保4年(1833)頃、中判(29.3×19.0センチ)、東京国立博物館蔵、拡大表示 
 
  魚を浅瀬に追い込み籠(かご)ですくい上げ捕る漁法。今でもアユ漁で行われている。

浮世絵 千絵の海


「千絵の海 五島鯨突」絵・前北斉為一筆(葛飾北斎)版元・森屋治兵衛 天保3〜4年(1833)頃、横中判(29.3×19.0センチ錦絵、東京国立博物館蔵 拡大表示 
 
  長崎県五島の魚目に伝わる漁法、慶長11年(1606)頃、熊野の鯨突き漁が伝わり行われた。小舟で鯨を追いかけ銛で突き弱らせながら浅瀬に追い込む。やや北斎の大胆さに欠ける。

浮世絵 千絵の海


「千絵の海 甲州火振」絵・前北斉為一筆(葛飾北斎)版元・森屋治兵衛 天保4年(1833)頃、横中判(29.3×19.0センチ)錦絵、東京国立博物館蔵 拡大表示 

「火振り漁」である。古くから行われ、月夜のない暗い夜に、松明の火を水面に近づけて魚(アユ)が寄ってきたところを編みで捕る漁法

浮世絵 千絵の海


「千絵の海 相州浦賀」絵・前北斉為一筆(葛飾北斎)版元・森屋治兵衛 天保4年(1833)頃、横中判(29.3×19.0センチ)錦絵、(財)アダチ伝統木版画技術保存会 複刻版 
 岩場に潜む魚を餌で捕る一般的な漁。

浮世絵 千絵の海


「千絵の海 総州銚子」絵・前北斉為一筆(葛飾北斎)版元・森屋治兵衛 天保3〜4年(1833)頃、横中判(29.3×19.0センチ)錦絵、ギメ東洋美術館蔵 拡大表示

  富嶽三十六景の流れの絵であり、特別な漁ではない。太平洋の荒波を見せたかったのであろう。

浮世絵 千絵の海


「千絵の海 総州利根川」絵・前北斉為一筆(葛飾北斎)版元・森屋治兵衛 天保3〜4年(1833)頃、横中判(29.3×19.0センチ)錦絵、(財)アダチ伝統木版画技術保存会 複刻版 拡大表示 漁師が四つ手網を引き上げているところ、網は水中に落としておき、頃合いを見て掬い上げる。シラスウナギ漁が有名であった。


浮世絵 千絵の海


千絵の海 宮戸川長縄」絵・前北斉為一筆(葛飾北斎)版元・森屋治兵衛 天保4年(1833)頃、横中判(29.3×19.0センチ)錦絵、東京国立博物館蔵 拡大表示 

『表題には「宮戸川」とあるが、関係する版下絵帖の同図には「両国」とある。対岸に並ぶ同一な建物は、北斎が描いた『隅田川 両岸一覧』上巻の「御船蔵の○(虫偏に舟)」にある御船蔵とみられ、版下絵帖の「両国」の表題のように両国界隈の景観と思われる。』 (東京伝統版画工芸協同組合ホームページより)


浮世絵 千絵の海


「千絵の海 下総登戸」絵・前北斉為一筆(葛飾北斎)版元・森屋治兵衛 天保3〜4年(1833)頃、横中判(29.3×19.0センチ)錦絵、メトロポリタン美術館蔵 拡大表示
 
  現在の千葉県登戸である、昔は「登戸の津」と言ったらしい。潮の引いた浅瀬でハマグリなどを取る様子である。千葉の焼きハマグリと言われ、東京湾の埋め立てが始まる昭和初期まで有名であった。



北斎はこのシリーズをもっと枚数を描く気持ちがあったようだ。校合摺(きょうごうすり)の段階まで作られた「品川」「上総浦」と題する作品が残されている・(『浮世絵の至宝 ボストン美術館秘蔵 スポルディング・コレクション名作選』小学館発行 2009年刊)写真・東京国立博物館蔵 拡大表示

 この校合摺 が品川か上総浦のどちらか不明であるが、北斎の場合に意外とシリーズ物が途中で打ち切りになることが多いと思われる。現代の我々が感じる北斎の芸術性と江戸の庶民が感じる感性には、隔たりがあるように感じる。江戸庶民は芸術性より感性に訴えるワンポイントがあればよいのである。北斎のお化けも当たらなかったし、歌川国芳の忠臣蔵も当たらなかった。役者絵も贔屓の役者の仕草が描かれていれば良く、写楽のようにディフォルメされた役者絵はいやなのである。



  『千絵の海』について……私見・北斎の波


千絵の海シリーズは、つい最近までその残存数が極めて少ないために、数枚を出したとこで中止された、または版下・校合摺りの段階で中止されたというのが、ほぼ今までの定説であった。ところが2011年1月10日NHK総合放送にて放送があり、「パリ国立図書館写本部で、画帳仕立ての『千絵の海10枚揃い』が発見された」のである。画帳仕立てとは、蛇腹仕立ての本で裏表に浮世絵を貼って豪華本にしたものである。私も新しい画帳仕立であるが、『御上洛東海道』を所有している。

  これら画帳本は、版元で初刷りなどを保管しておき、シリーズ完了後に特別な顧客(主に裕福な商人や高禄の武士)に売った、幕末・明治になると外国人などに、目次等などを造り張り込んで販売したものらしい。特に高価であったようだ。パリにあった画帳本もおそらく明治にやって来たお雇い外国人が土産として購入して持ち帰った品でないだろうか。
 
  画帳本になっていたと言うことは、それなりに人気があり版を重ねたのではないか、江戸時代には中判( B5サイズ)で小さく、購入者も一枚や二枚の少数買いでお土産や気軽に貼られたため、大判錦絵と比べて残存数が極めて少ないのではないか。または、北斉の持ち込み企画であるが、版元は渋り、リスク軽減のため、中判という摺りのため枚数が少なかったかもしれない。この中判は地方へのお土産にぴったしの判型であると思うが、どうだろうか。
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大正12年(1923)に起きた関東大震災は、建物の倒壊や火事で東京府を壊滅させた、そのため多くの人命が失われた、また多くの美術品も失われた。個人の家にあった浮世絵〔錦絵)も灰燼に帰した。もとから浮世絵コレクターがいたかは疑問だが、肉筆はともかく、一枚摺浮世絵は災害や転居などのため、極めて残りにくかったに違いない。稀な例として、幕末頃に護国寺付近で宿屋を営んでいた家に残された浮世絵がある。


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