江戸時代幕末の文久3年(1863)に家光以来230年ぶりの上洛が行われた、第14代将軍家茂の御上洛風景を描いた錦絵の揃物(162枚)があると言う、その事はあまり知られていない。シリーズの全貌を紹介したい。

 
資料  企画展示『行列に見る近世―武士と異国と祭礼と―』
国立歴史民俗博物館刊 2012年刊

徳川家茂イラスト写真参考書
行列を識る―5 東海道物と大名行列 大久保 純一

保永堂版で大名行列が繰り返し登場するのに、他の東海道物にはそれが少ない明確な理由は思いつかない。大名行列の国元への旅立ちでスタートした保永堂は、それが揃い全体をまとめる基本モティーフとされたことが大名行列の頻度の高さの要因かもしれない。(中略)保永堂版の後に少なくなった大名行列が、ふたたび頻度を増して描かれるようになるのは幕末のことである。文久三年(1863)、大規模な武家の行列を描いた錦絵が大量に描かれるようになる。これらは、同年三月、14代将軍の家茂が、孝明天皇の攘夷実施の強い求めに応じて上洛したこと描いた。

(中略)三枚続の画面形式で、大名行列が東海道を西へと進む光景がパノラミックな視点でとらえられているもので、しばしば題名に源頼朝の上洛とうたわれているか、(中略)当時の出版法令は、徳川家に関わる事象を禁じていたため、絵画化する場合はよく似た過去の歴史的出来事でカモフラージュすることが一般的であった。

(中略)いまひとつ、文久三年の上洛を描いた錦絵の中で通称「御上洛東海道」と呼ばれる揃物もある。画中の題名はたんに「東海道」あるいは「東海道名所之内」、目録には「東海道名所風景」と記されている。二十五版元の共同企画で、三代豊國、二代広重、二代国貞、貞秀、国周、芳艶、芳年、周麿(暁齋)ら十六名の絵師の合作になり、全百六十二枚にものぼる大きな揃物で、東海道とその周辺の名所のみならず、京坂、畿内の諸国なども取り上げている。

(中略)将軍家茂の上洛を描いた東海道の揃物には、いまひとつ「末広東海道」と題された貞秀、二代国貞、芳年、芳盛らの合作になる五五枚揃いもよく知られている。(注)慶応元年に幕府の検閲を通おっている。』と大久保純一氏は上記の揃物が、時代のニーズを当て込んだ揃物と思われると書かれている。



資料 『東海道中を描く錦絵の新展開ー「御上洛東海道」を中心にー』

文学研究博士課程後期課程 山本 野理子
 関西学院大学・博士学位論文 
この論文は、2011年5月31日、関西大学の審査を経て学位を授与されている。)
 
 
論文内容は、徳川将軍家茂の上洛を描いた通称「御上洛東海道」をさまざまな視点から考察したものである。

  歌川廣重(初代)の「東海道五捨三次之内」天保4年(1833)から、その続編(源流)とも言うべき古来からの東海道道中物、また御上洛に先立つ文久二年に、早くも3枚揃いの御上洛風景画が刊行されており、当時の時代が錦絵にも情報性を求められていることを論じている。これら先行する錦絵が大衆にどのくらいのインパクトを与えたか定かではないが、少なくとも当時、浮世絵界の長老である歌川廣重(3代)が歌川派をまとめ、版元の交渉に当たり、歌川派16名の絵師が「御上洛東海道」に参加したことは事実である。

『この文久三年の家茂上洛 の道中を描いた錦絵シリーズは、「御上洛東海道」、「東海道名所風景」、「行列東海道」とよばれている。このシリーズの各図はいずれも、幕府の出版統制に従って「将軍」「家茂」といった明確な文字表記を避けている。しかしながら、登場する人物や町並みの描写はまさに当世風であり、当時の人々にとっては、一見して家茂上洛の図とわかるものである。』論文から

  大衆の関心事である将軍の上洛と言う大イベントに、東海道五十三次の風景を加えれば充分に商売になると考えたのであろう。それには、将軍の上洛行程に無い風景(場所)を描かせ、新しい東海道物を目指した。また、時期を逃さないため162枚の順次早期の発売といったスタイルとなる。浮世絵の制作は短時間に行われたらしく、版元は25になり各版元が出来上がる端から売り出された。そのほとんどは文久三年四月から五月であった。画帳仕立ての「御上洛東海道」には目録が付いており、それらを参考に162枚の順番を決めている。(目次へ)

私見であるが「御上洛東海道」を描く絵師の力量の差は激しく構想力より報道性が目立つ、絵画性のある月岡芳年の描く錦絵は、ほとんどが従来の東海道物にはない風景である、彼のように力量のある絵師はきわめて少ない。


資料  『東海道五十三次 将軍家茂公御上洛図』福田和彦著 (株)河出書房新社 2001年
明治初期、日本を文明国にすべく明治背府は諸外国から学者・軍人・職人など外国人を雇い入れた。通称「御雇い外国人」という。その中に大蔵省紙幣局に招聘されたエドアルド・キヨソーネ(1833〜1898)(イタリア人)が銅販画原板の制作、彫刻、印刷技術を教えた。彼は、我が国印刷の父と呼ばれている。彼は日本美術に対する貢献も多大であり、彼自身も多くの美術品を集めた。そのコレクションはイタリアジェノバ市の市立エドアルド・キヨソーネ東洋美術館に収蔵されている。その浮世絵コレクション内に「御上洛帖」が有り、その中に「御上洛東海道」162枚が眠っていた。文久3年(1863)、徳川将軍家茂の上洛光景を描いた錦絵162枚である。専門家の間では知られた事であろうが一般的にはあまり知られていない。この錦絵を撮影して、まとめたのが福田和彦氏の本である。詳細を見る

『東海道五十三次 将軍家茂公御上洛図』についての疑問
 著者の福田和彦氏は私見とことわった上で、以下の説を書いている。写真参考書
 
  『むろん私見であるが、私には家茂の政事総裁職であった越前(福井)藩主松平慶永の発案ではなかったと思われる。春嶽は大名の中でも粋人、風流韻事を好む大名として知られた。それに浮世絵版画の愛好家である。洒落っ気のない狩野派の絵師よりも浮世絵師の方がはるかによいのではないか。二代広重、貞秀、国貞などについて春嶽はその風景画、風俗画(春画もふくめて)のことを熟知していた。それに浮世絵氏たちの写実画家としての技量も狩野派に劣らぬものであった。身分や画格の優劣ではなく、上洛図という行粧の風俗画であれば浮世絵師の方が腕達者であると見込んだからであろう。そこで名主や版元(出版社)など一同に命じて随行の絵師達を選び、この壮大な将軍上洛、東海道五十三次を描かせたものと推察される。浮世絵師にとっては幕府の下命で、手当はもらえる、寝食の心配なし、まさに千載一遇の到来である』と福田和彦氏は書いている。
 

資料  生活人新書 NHK出版『大名行列の秘密』安藤優一朗著 日本放送出版社 2010年刊
写真参考書
『この時の将軍の行列が錦絵に描かれている。幕府は浮世絵師として江戸で大変人気のあった二代目(あるいは三代目)歌川豊國一門の絵師を十六名も随行させ、将軍行列の様子を描かせたのだ。費用は幕府持ちで、手当も支給させた。毎日鰻が出されるという、浮世絵師にとっては至れり尽くせりの公務だった。こちらの意図通りに、気分良く描いてもらおうという幕府の思惑が窺える。』との記述があるが、この説は福田和彦氏と同じである、私も江戸の文献に詳しいわけではないが、どちらも典拠資料の明示がないので信じることが出来ない。

資料  国立民俗歴史博物館に「……歌川派の絵師は御上洛に同行したのか」と質問した。

この歌川派絵師の同行説を裏付ける資料はなく、当時の状況から町絵師である歌川派が同行出来るはずもなく、同行させるならば狩野派であるべきであり、版元が売れると判断して独自に企画したものであり、そのため徳川将軍を源頼朝などに仮託して描いている。『直接に徳川将軍を描いたものであると明示する事を回避しています』との趣旨の解答があった。この質問は唐突ではなく、同博物館が「行列にみる近世」の企画展示期間中であったから、展覧会準備中に調べられた事柄と思う。


資料  大正7年(1932)発売の豪華本『大名道中』を発見、文久3年の徳川家茂上洛風景を描いた浮世絵である
写真参考書
豪華本『大名道中』を発行・発売した東光園は、歴史書や民俗ものの得意な出版社らしい。大正7年(1932)には『東海道広重五十三次現状写真対照』を発行した。広重画描いた五十三次の場所を特定して、写真と浮世絵を見開きで比較する編集スタイルである。現在でも類似の本が多い人気企画である。東光園の本は、明治維新後50年であり、江戸時代からあまり風景の変化は無いようだ、この種の本の最初ではないか。この本は知足美術館(ちそくびじゅつかん)より2006年に複刻されている。東光園は大正12年の関東大震災で被害を受け、活動を停止したのではないか。詳しいことは判らない。詳細を見る (『馬込と大田区の歴史を保存する会』所蔵)

この『大名道中』の企画の元になった本があったのではないか、と疑問であった。ばらばらに浮世絵を集めて企画を立てるわけがない。『浮世絵出版論 大量生産・消費される〈美術〉』大久保純一著 (株)吉川弘文館 2013年刊に、北斎の『富嶽三十六景』や広重の『名所江戸百景』には大衆にばらばらに売る以外に、最初から画帳仕立てで売るつもりがあったのではないか、それを購入する裕福な人たちを想定している。『御上洛東海道』は160枚を越える大部である、全部でないが、受ける浮世絵を集めた画帳仕立が発売された。これを元本に大名道中が企画されたと考える

資料  《私見》御上洛東街道を見て、私は歌川派16名の御上洛同行はないと考える。


幕府に許され、将軍の権威を高めるためならば、源頼朝に仮託して描くことはしなくて良いのではないか。錦絵の中に徳川家の三つ葉葵紋がなく、頼朝の笹竜胆(ささりんどう)があらゆるところに描かれている、それは幔幕であったり着物の一部であったりする。源頼朝の家紋竜胆は徳川将軍を表すことは当時の江戸っ子に取って知られたことであった。
 時間的にも同行取材して、すぐに刊行することは不可能である。特に報道性の強い今回の企画は、将軍が出立すると同時でなければ売れゆきにも影響する。


将軍上洛に町絵師とも言うべき浮世絵師が同行することは、幕府の御用絵師である狩野派が反対するはずであり、いくら幕府の屋台骨が揺らいだとはいえ不可能であろう。もし本当なら、幕府が16名者もの町民の絵師を同行することは、江戸市中の噂になり読売(瓦版)や藤岡屋日記にも書かれたであろう。そのような資料はないと考える。この企画は安定した読者が見込める「東海道五十三次」シリーズである風景浮世絵に、将軍家茂上洛という報道性を狙ったものであると考える。


トップ扉に戻る     御上洛東海道の絵師目次    エドアルド・キヨソーネ