六郷の渡しを船で越える大名行列…将軍徳川家茂の
上洛に合わせて発売された錦絵
「東海道六郷渡風景」五雲亭貞秀 文久3年(1861)4月 (国立国会図書館デジタル化資料所蔵・許可済み
 
  上の錦絵は江戸幕府 第14代将軍 徳川家茂の上洛に先駆けて企画され、発売された大判錦絵3枚続である。上洛の通達が出されたのは文久2年(1862)9月7日で、その情報は庶民にも伝わり、新しい東海道錦絵シリーズになると企画された。早くも文久2年(1860)から発売された、この錦絵は家茂上洛の一ヶ月後、文久3年(1861)4月のタイムリーな発売である。五雲亭貞秀は同年3月に「東都高輪風景」(大判錦絵三枚続、文久3年3月、駿河屋半七判)、「東都日本橋の勝景」(大判錦絵三枚続、文久3年3月、薗原屋正助版)も出している。いずれも家茂の第一回上洛に題材を採った錦絵である。


錦絵について……
 錦絵は京都から帰還して江戸に入る最後の「六郷渡」風景で、川崎側から見た六郷の渡しである。 川崎側から六郷川(多摩川)を船で渡る錦絵である。何処にも将軍家の渡し風景と描かれていはいない。錦絵出版規制(主に役者絵)の緩みから一歩踏み込んだのが上の錦絵である。何故、将軍家の渡し風景と判るのか、まず中央に描かれた「御大将」と描かれた人物は将軍徳川家を表す。今までは出版規制のため将軍は鎌倉幕府の武士の棟梁である「源頼朝」に仮託されて描かれた、しかしこの錦絵は御大将と将軍と直接描いている。大将は徳川将軍を表すのが当時の常識である。
  次に道具立て(武器)の多さである。中央の御大将の船に随伴する2隻の「槍」船には、39本の槍が立てられている、これだけの槍を立てることが出来るのは将軍家だけである。江戸時代には、将軍家のみが5本の槍をたてることをゆるされ、御三家は4本槍、次に3本槍は薩摩の島津家、仙台の伊達家、後に越前福井の松平家、細川家、毛利家、佐竹家、黒田家、鍋島家と僅かでした、2本槍は三万石以上の大名・外様の大大名前田家は遠慮して2本槍でした。大部分の大名は3万石以下であり、1本の槍しか立てられなかった。また弓も多く、いま船に乗り込もうとしている鉄砲隊の多さも将軍家を表すと考えられる。


 ー第14代将軍家茂は供奉3000人を従へて江戸城を出立したー
文久3年(1861)2月13日》


徳川家茂の上洛について……
 
  江戸幕府・第十四代将軍徳川家茂(1846〜1866)は3回の上洛をはたしている。第一回は文久3年(1863)2月13日である。将軍家の権威を示すため、上洛の供奉は3000人に及んだ。二回目の上洛は元治元年(1864)正月、三回目は慶応元年(1865)5月に上洛して公武合体のために奔走したが、慶応2年(1866)21才の若さで病没する。

第一回の上洛が知られると、定番化した「東海道五十三次シリーズ」名所錦絵に、新しい報道性が加味されたシリーズにするべく歌川派が総力をあげた錦絵シリーズが造られた。第一回の上洛に題材を採ったのが、俗に言われる「行列東海道」とか、「東海道名所風景」、または「御上洛東海道」などと言われる。この上洛に歌川派の絵師10数名が同行して上洛浮世絵が出来たという説もあるが、確かな資料があるか不明である。この説を唱えるのは福田和彦氏であり、著作『東海道五十三次 将軍家茂公御上洛図』で歌川派の絵師16名が上洛に同行したと、私見と断りながら紹介している。


 
イラスト
第十四代将軍徳川家茂
(1846〜1866)
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