ー大田区の御狩場、八代将軍吉宗の狩場・鶴(捕鶴場)ー 

教育用の解説本
 
  東京国立博物館に保存されている『教草(おしえぐさ)』と呼ばれた江戸時代の書物である。初等教育用の教科書のようなものである。絵と文章で子供にも分かるように説明している。

  写真は「鷹狩一覧」とタイトルが付いている。東京国立博物館には21点があり、調べると全30点あり、それぞれに外箱が付いている。
田中芳男が明治6年(1873)にオーストリア・ウィーン万国博覧会に出品したものである。 


『資料は、明治6年(1873)のウィーン万国博覧会で紹介した日本の伝統的な技術や産業などを、子ども向けにわかりやすく図解した「教草(おしえぐさ)」の中の1枚です。鷹の種類、道具、調教方法、狩りの時期などが記されています』(国立公文書館)東京国立博物館蔵 

   

大田区での鷹狩りについて……(江戸時代)
 
  太田区史によると徳川家康は大田区内では鷹狩りをしなかったらしい 。家康は駿府、武蔵の国越谷、上総国東金(とうがね)など遠隔地の狩りを好んだ。徳川幕府の『徳川実記』によれば大田区での将軍家鷹狩りは19回で、家光が3回、吉宗が12回、家斉が4回である。
 
  吉宗は家康に次いで鷹狩りに熱心で独自の試みをしている。「綱差役」を創出して囮となる鳥を飼育させたことだ。大田区は江戸周辺では、葛西筋と共にもっとも良い鶴の生息地であった。また鶴を保護する目的か「鶴寄土手」と言われる土手を四カ所造らせた。江戸庶民の行楽地であった新井宿村の風光明媚な荒藺ヶ崎では兎狩り(兎御成)をして、休息場所は旗本・木原屋敷(大森木原山)である。また民情を視察するため吉宗は農家でも休息した、大森村の久左衛門の家が当てられたようだ。

  平間街道(旧池上通り)の海岸側は、大森から池上まで葦(あし)が茂る遠浅で、この低地は鳥の楽園であり、鶴・真鴨・白鳥・鴨・鴛鴦・雉子・雲雀・鷭(ばん・ツル目クイナ科の鳥)など多種の鳥が生息していた。 漁猟御成という魚(鯉)を捕る狩りもある。鵜ノ木・下丸子にまたがる古池は鯉御猟場であった。

−1.大田区の御鷹場ー

 大田区内の村々は、御拳場(おこぶしば)六筋のうち品川筋と六郷筋に編入されたが、享保10年(1725)品川筋は目黒筋と改称され、目黒筋は石川・道々橋・雪が谷・池上・馬込・上沼部・下沼部・久が原の八か村であり、品川筋は四十五か村のうち残りの三十五か村である。新井宿の荒藺ヶ崎(あらいけさき)は小動物の狩り場である。また矢口・下丸子・六郷渡船付近に鷭御場所があった。

−2.大田区の鳥見役ー
 享保二年(1717)、品川・六郷筋には四名の鳥見役が配置され、品川筋に内山源五右衛門、小抱源太郎、坂部新五郎、六郷筋の東大森村に福島勘右衛門 が配置された。

−3.大田区の休息所ー
  文政3年2月3日の品川筋(六郷筋)徳川家慶 の鶴御成では、大森海岸の山本浦・甚兵衛 が御狩場である、鶴や真鴨の狩りが行われ昼の休みどころは大森の和中散であった。また休息所は鈴ヶ森浜川通の総左衛門方であった。
 
  休息施設は御腰掛・御膳所・御小休所・御休息所・御弁当所などと呼ばれ、大田区では不入斗村の鈴森八幡などが吉宗の使った休息所である。また享保4年(1719)の狩りでは、「池上本門寺の隠退所養源寺に休み、本門寺に銀十枚を下さる」との『徳川実記』の記録もある。大森周辺では、源正寺、密厳院などでも休息した。

−4. 鳥見役が行う村への規制、触次役、鷹場組合と増上寺領ー
 農業への規制は田植えの水引、祭礼や講の開催、種まきの時期まで鳥見役の指示を受け鷹場の維持が優先された。触次役は『領の惣代として、また、幕府役人と村を結ぶ中間的機構として位置付けられる事になった。『六郷領、世田谷領、馬込領にもそれぞれ触次役がおかれた。増上寺領は諸役免除の特権を与えられ、三名の触次役の差配を受けず、寺領村々だけで一部の鷹野御用にあたっていたに過ぎない。増上寺領は文政期の改革組合結成に際しても除外されており、増上寺の特殊な権威を示している』『文化7年から天保4年にかけては馬込村の源右衛門が触次役を務め、同時に御賦方人足肝煎も命じられ、その手当金として金三百疋(三分)を賜った。(『太田区史 中巻』)

−5.村々への負担、あらゆる助郷ー
 上げ物(あげもの)の納入、鳥の餌であるイナゴ・ケラなどの虫を捕らえる。 御狩り場の 見回りと 整備などの負担が重い。

−6.特殊な害鳥駆除 がおこなわれたー
 鳥打・鷲打・鳶打と呼ばれる狩猟が幕府の鉄砲隊によって行われた。鷹の餌を横取りする鳥と考えられた。この鳥打ちは江戸湾に面した羽田あたりで行われ、羽田の鷲打、羽田の鳥打ちと言われた。この手伝いと見廻りも農民の助郷(すけごう)である。(注・助郷とは農民のお手伝いである)。


江戸郊外 大田区の鶴の狩り場について「新版 大森風土記」から

『 徳川幕府時代は大森区即ち、新井宿、馬込、池上、舊大森地方は将軍家の狩猟場で殊に鶴領地として著名であった。新井宿の源太郎、喜平、子四郎(何れも橋爪氏)は木原地頭の下に将軍家の鶴役を仰付けられ多きは六人扶持で而かも隔年に家を修繕した、その費用は将軍家より支出されたといふ、

  捕鶴場としての一説には、新井宿、蒲田の鶴渡り、川崎の三カ所であったといふ』、『亦馬込西一丁目の上台稲荷神社の境内は、鶴の巣籠で名高い伝説に終始している』、また大森山王の弁天山一体は、将軍の狩場としてしられていた。(静山公「甲子夜話」より。このあたりは、兎狩場であったと言われる。(参照『新版 大森風土記』杉原庄之助著 昭和10年刊 私家本)。黒鶴神社を見る

ー『富士の裾野巻狩之図』画・玉蘭齋貞秀ー
玉蘭齋貞秀(歌川貞秀) 版元・山口屋藤衛門 37×74センチ 三枚揃い 
(「馬込と大田区の歴史を保存する会」所蔵)

名主印は米良太一郎と村田平右衛門である。発売は引化4年(1847)から嘉永5年(1851)の間である。全体の色味も悪く、出来は良くない。これは経年劣化なのか、裏打ちの糊のせいなのか分からない。
右にある台場が「 御立場」と言われる将軍の御覧になる場所である。よく使われる面目がなくなる、「立場」がなくなるとは、ここから来ているのかも知れない。    歌川貞秀について(御上洛東街道から)

『東葛飾郡史』掲載の『小金野夢物語』より

  現江戸川までの橋の補強、江戸川を渡るための船を連ねた「船橋」の設置、御成道の土を盛った整備と1町約100mごとの道の左右の提灯の設置、松戸の松龍寺での将軍の休息を記している。同様に、御立場は方30余間(54m以上)、高2丈5尺(約7.5m)、青々とした野芝を植えて補強し、頂上部の広さ8間余で東向き2間四方の御殿があった。勢子等の人足は各地の石高に応じて割振られ、石高から4,9992人と推定している。現在の千葉県松戸市小金牧である。( Wikipediaより


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