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![]() 狩野常信とは……
狩野養朴常信(かのうつねのぶ) 生誕・寛永13年(1636)3月13日から正徳3年(1713)1月27日歿78才、狩野尚信の子で木挽町狩野家2代目、幼名は三位、通称右近と言われる。狩野常信の画号は「養朴」(剃髪のち名乗る)で狩野養朴常信となる。 慶安3年(1650)に木挽町狩野家2代となり奥絵師となる、江戸城や内裏の障壁画制作にも参加する。探幽没後、狩野派の重鎮となる。宝永元年(1704)に法眼、宝永6年(1709)法印に序せられる。 ![]() ●平成14年(2002)狩野素朴常信の墓所の発掘 『この墓所は 亀形の台座上に土頭形の身部を組み合わせる いわゆる亀映碑形墓であり、 下部に3段の基台を耐えています。規模は 平面2.57× 190m 総高257冊の大きさです。理葬施設は 台座周囲に掘り込み地業を施し、 その西側に接して木棺 外枠と漆喰椰の多重構造を有する主体部を構築しています。主な出土品は 漆塗煙管箱1口、 刀装具―括、 経巻軸頭一括、 かわらけ、釘などです。狩野養朴常信は、狩野尚信の子であり、 狩野探幽の甥にあたり、江戸幕府の奥絵師家 木挽町狩野家(当時は竹町)2代当主です。絵師の最高位である法印に叙任された人物であり 正徳3(1713)年、 行年78歳で亡くなりました。』 (第3回特別展パンフレット『江戸狩野とその世界』立正大学博物館 2006年) 池上本門寺・五重塔横の狩野家墓域、右が狩野常信の墓 |
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![]() ●「善知鳥(ウトウ)」詳細は毛利梅園のウトウを参照 東京国立博物館蔵 |
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![]() 『鳥写生図巻 2巻』伝・狩野常信筆 |
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●「メグロ 小笠原諸島固有種」延宝3年(1675) |
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