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●『大日本名将鏡』…武田大膳太夫晴信入道信玄 ![]() ●「風俗三十二相 うるささう」月岡芳年 版元は日本橋馬喰町の島鮮堂綱島亀吉 寛政年間乙女之風俗 1888年(明治21)から始めた大判32枚のシリーズ、明治時代からの年代・年齢・階層の女性を描く、芳年の代表作とも言われる。「馬込と大田区の歴史を保存する会」所蔵 |
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《月岡芳年の奇想 毅然とした哀愁漂う後ろ姿》●源頼朝に愛され、数々の武功をたてたが頼朝の死後、北条時政らの讒言にあい討伐される。場面は二俣川で討伐軍にあい、潔く討たれる場面である。誇り高く哀愁漂う後ろ姿を月岡芳年は見事に描いている。下の左側 ![]() ![]() |
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「一ノ谷合戦」画・月岡芳年 竪2枚 国立国会図書館所蔵 詳細を見る |
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月岡芳年は、作品として『大日本名将鑑』『大日本史略図会』『新柳二十四時』『風俗三十二相』『月百姿』『新撰東錦絵』『芳年武者無類』などがあるが、芳年は江戸時代の武士と違う武士像を求めたようである。時代考証をしっかりとし、近代的意識を持った武人である。鎌倉武士を見る。 |
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![]() ●船橋を渡る官軍(大田区立郷土博物館所蔵)
左の錦絵は「一魁斉」の号である、製作も明治元年であるので、芳年特有の鬼気迫る恐ろしさはなく、緻密な錦絵である。彼の持病である精神分裂症の発病は明治5年(1872)である。絵に病気の様子は見られず、写実描写が発揮された素直な錦絵である。 |
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![]() ●最後の浮世絵師と言われた月岡芳年について…一魁斉芳年 月岡芳年(俗称 米次郎)は天保10年(1839)3月17日に生まれた。「江戸新橋の丸屋町」と「武州豊島郡大久保」だという二つの説がある。12才で歌川国芳の門下となり、15才で処女錦絵『文治元年平家一門海中落入図』(1853年)を上梓している。芳年の画号と一魁斉の号を許されている。専門家は慶応二年(1866)までを芳年の修行期間と位置づけている。(参考「芳年の作品 その狂気と幻想」山根康愛著) この絵を描く二年前には、兄弟子と競作で『英名二十八衆句』を出している。14枚ずつの絵すべてが血がしたたる凄惨なもので、後の発病を予感させる錦絵である。 ●月岡芳年は歌川派絵師の一人として、文久三年四月頃より板行された『御上洛東海道』に参加した。齋号は一魁齋芳年 で、彼特有の構成で8点の浮世絵を残している。参加した16名の歌川派絵師の中でも構成力は郡を抜いている。一魁齋芳年の御上洛東海道を見る。 ●月岡芳年は後に「郵便報知新聞」に参加する。これは明治7年から10年のわずか3年の短い期間発行された錦絵新聞である。有名なのは「東京日日新聞」と「郵便報知新聞」で、これらの新聞は当時の社会状況を錦絵に描いたものである。事件を今の写真週刊誌や女性週刊誌のように「のぞき見」的に取り上げ大衆に受けた。しかし、のちに新聞が同様な取り上げ方をしたことによって衰退し廃刊となった。 明治6年(1874)月岡芳年は病が治った頃、蘇ったと言う意味から「大蘇芳年」と名乗る。他にも、玉櫻、旦華亭または子英などの号がある。
●錦絵で有名なのは、縦二枚続の「安達ケ原一つ家の図」(左の浮世絵 東京国立博物館所蔵)、縛られ逆さ吊りにされた若い妊婦を見上げる老婆の絵。 残酷絵に鬼才を示し「血みどろ芳年」ともいわれたが、他の絵にも傑作がある、大首絵の美人画などである。作品としては、円熟期(明治9年から17年)に発表された『新撰東錦絵』、最高傑作『月百姿』などがある。これ以後、精神に異常を来し作品は減る。 ![]() 「老婆鬼腕を持ち去る図」 ![]() 「武田勝千代に老狸を撃の図」 ![]() 「二十四考狐火之図」 『新形三十六怪撰』で妖怪趣味の異常な世界を描く。その後、病が再発し明治25年(1892)6月5日没、享年54才であった。彼の墓は、東大久保の東福寺にある。明治31年(1898)には、向島百花園に記念碑が建てられた。(浮世絵は東京都立図書館所蔵)
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●文久4年(1863)、一魁齋芳年の齋号で『御上洛東海道』に参加、彼らしい独創的な浮世絵を制作した。 |
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